ストーリー
【写真】ロサンゼルス郊外の自宅でインタビューに応じてくれたクジョーことジェイコブ・ライオンズ

(カテゴリー)インタビュー

身体で聴く—自分のベスト・ヴァージョンを求めて

ジェイコブ・ライオンズ(クジョー)
[ブレイクダンサー]

クレジット

[写真・文]  水田拓郎

読了まで約13分

(更新日)2022年11月17日

(この記事について)

「Bボーイ・クジョー」や「クレイジー・クジョー」の名で超人的なパワームーブを繰り出すユニークなブレイクダンサーとして世界的に有名なジェイコブ・ライオンズ。しかしイル・アビリティーズのメンバーになるまでは多くの人は彼が聴覚障害者だということを知らなかった。アメリカ、ロサンゼルス郊外の彼の家を訪れてダンスを始めるきっかけやブレイクダンスを通して伝えたい思いを聞いた。

本文

聴覚障害や吃音で自分に自信のなかった少年時代。ダンスのきっかけは少年更生施設でみたヒップホップの雑誌

DIVERSITY IN THE ARTS TODAY(以下、DA)
15歳の時からダンスをしているとのことですが、きっかけは何だったんですか?

クジョー
12〜13歳、ちょうど中学生の頃、自分のアイデンティティーや仲間を見つけるために色々なことを試していたんだ。ヘビメタやパンク、スケボーなどもやってみたけど、なかなかうまくいかなかった。ただ子供の頃から運動神経はよくて、手を使わずに雲梯(うんてい)からぶら下がったり、今だったら自重トレーニングと呼ばれるようなものが特に得意だった。

DA
ヒップホップやブレイクダンスはそこから?

クジョー
80年代後半はまだ周りでブレイクダンスがそこまで流行っていなくて、当時の流行りだったダンスのムーブは全然得意じゃなかったんだ。むしろヒップホップに関わり始めたのは地元の悪い友達の影響だった。ギャングというわけではなかったけれど、ギャングに憧れているような子たちだった。

そのせいで生まれ育ったパサデナから私立高校に入学するためにバーバンクに引っ越したんだ。僕の両親はお金持ちが通うキリスト教系の高校に通わせた方が安全だと思ったんだろうけど、そんなことはなかった。その学校では僕は見た目や聴覚障害(注:クジョーは生まれつき右耳が感音難聴のために全く聴こえず、左耳も伝音難聴を度々患っている)のせいで発話がうまくできなかったためにひどいいじめにあった。ある日、僕は嫌気がさして学校にナイフを持っていったら、父親に見つかって警察に通報されて学校を退学になってしまった。そして両親は僕を少年更生施設に1ヶ月ほど入れたんだ。

DA
それも極端な話ですね。

クジョー
そう、とっても傷ついたし、なんで僕と直接話し合わないで他の人に解決させようとしてるんだと思ったよ。残念な気持ちだったけど、その時の体験が今いろんな人を指導する立場になってとても役立っていると思う。施設に入った時、自分は本当に変わりたい、もっと良くなりたいって思ったんだ。僕は耳が聞こえなかったり、一人でいることが多かったからいつも怒っているような少年だった。

DA
子供の頃は孤独だと感じてましたか?

クジョー
そうだね。とても孤独だったし、とても苛ついていた。聴覚障害の影響で話すときに言葉の発音がうまくできなくてひどい吃音があったんだ。内気な性格もあって自分に自信がなかった。

DA
学校では普通に授業を受けていたんですか?今話している感じだと全然わからないのですが、発話を改善するためのトレーニングを受けたりしました?

クジョー
小学校の短い期間だけ特別学級みたいなものにいたが、それ以外は他の生徒と同じクラスで勉強をしていたよ。中学校ではスピーチ・セラピーを受けていたけど、あまり意味がなかった。僕は「F」と「R」とその間の音の発音が苦手なんだけど、それは自分で発見して自分で克服しなければならなかった。

DA
更生施設の後はどうしたんですか、新しい学校に通うことになったんですか?

クジョー
施設の待合室にはヒップホップの雑誌が置いてあって、その中の広告の洋服がとても気に入ったんだ。クロス・カラーズというブランドで、ここを出たらこのダボダボの洋服を着た新しいヴァージョンの自分で新しい学校に行くと決めていたんだ。

DA
そのブランド、私も覚えてます!ビビッドな色使いが印象的でした。

クジョー
僕もあの派手な色が好きだったんだ。それで新しい学校での初日にこのブランドの服を着て廊下を歩いていたら、8〜10人ぐらいの同じ服を着た集団がこっちに向かって歩いてくるんだ。90年代のロスでは同じ色の服装をしている集団はとてもヤバい連中ばかりだったから、とても怖かったんだけどその場では逃げることもできなかった。

そして僕のところにやってくると一人が「お前、ダンスをするのか?」と言ってきた。僕はてっきり「お前はどこのギャングだ」と聞かれるとばかり思っていたからびっくりしたんだけど、「いや、やらないけど、やってみたい」と答えたんだ。そしたら向こうは「じゃあ教えてやるから、仲間になれ」って言ってくれたんだ。でも結局何にも教えてくれなかったけど(笑)。

誰も教えてくれなかったブレイクダンス、限界まで人と違うスタイルを探求

DA
教えてくれなかったんですね(笑)。ではブレイクダンスはどうやって習ったんですか?

クジョー
ダンスをはじめてすぐにヒップホップでは自分で新しいものを作らなければならないとわかったんだ。誰かの真似をするとすぐに殴り合いの喧嘩になってしまう。今では信じられないかもしれないけど、当時のヒップホップはそんな感じだったんだ。ダンスをするなら他の人とは違う、オリジナルなものでなければいけないと身をもって知ることになった。他と差をつけるために自分の得意なものを活かさなければいけなくて、僕の場合は運動神経が良かったことだった。

そこからブレイクダンスを巨大なパズルだと考えるようになって、その足りないピースを提供するのが自分の役割だと信じるようになった。そこから手で垂直に逆立ちをするのではなく、地面に対して平行や角度をつけて体を支えるようなテクニックを生み出していったんだ。またはその姿勢のまま手で歩いたりとか。とにかく限界まで人と違うことをやろうとした。人によってはそれが行き過ぎに見える場合もあって「お前がやっていることはもうブレイキングじゃない」と言われることもあったけど、僕はその境界線をもっと知りたかったんだ。「行き過ぎ」とはどういうことなのか、何かが受け入れられないのは自分の問題なのか他人の問題なのか。そういった疑問をオンラインの掲示板やSNSでも積極的に投げかけたりして、とても多くの議論が起きたんだ。

(埋め込みコンテンツについて) 上半身の筋力で体を地面と平行に支えた状態でさまざまな動きを加えてゆく、クジョーのオリジナルなパワームーブ

(埋め込みコンテンツの説明) 【YouTube動画】

DA
そういった批判や議論の結果、ブレイクダンスから距離を置いたり、ジャンルに対して疑問を抱くようになりましたか?

クジョー
いや、自分にとっていつもブレイクダンスが中心にあったからそのようなことはなかったけど、ブレイキング以外の活動につながっていった側面は確かにあるかもしれない。後になってモダンダンスを勉強したし、ダンスにおけるキネシオロジー(運動機能学)で学位をとることにもなった。そしてその後に10年ほど自分のコンテンポラリーダンス・カンパニーも主宰することになった。

ある人は「(ブレイキングという)私たちのダンスを白人化している」と言って僕の活動を貶めようとしたけど、批判を受けたのはそれくらいだった。僕にとってヒップホップはいつも寛容で多様なものだった。最初に加わったダンスクルーはイラン系の兄弟とメキシコ系がメンバーだったし、どこでやるにしても白人はいつも自分だけだった。結局人種や生い立ちではなくて、何をどのようなクオリティーでやるかによって評価されている気がしたから、自分もそういう考えを持って常に活動を続けているよ。

踊るときに聴覚だけに頼らない聴き方を見つけなければならなかった

DA
音楽や音に対してはどういうアプローチをしていますか?あなたにとって聴くこととはどういった意味を持つのでしょうか?

クジョー
もともとヒップホップという音楽が好きになった理由の一つが歌詞の意味が聞き取れなくともその音楽がダイレクトに伝わるような気がしたから。それがどんな音で、どんな音楽性で、どんな予期しない展開をするのかが自分にとってとても大事な要素だった。だけどヒップホップのトレンドが変わっていって段々とつまらなく感じるようになってしまった。だから自分の好きな音楽やユニークに聞こえる音楽を自由に選べる劇場ベースの活動に傾倒していったのかもしれない。

音に関しては、踊るときに聴覚だけに頼らない聴き方を見つけなければならなかった。たとえば視覚的な方法で。観客が音楽に合わせて頭を振ったり、手を叩いたりするのを手がかりに音楽の中のリズムをとらえるようにした。だけどこれができない時もたまにある。特にショーケースなどではよく起きるんだけど、誰もリズムに乗ったり手を叩いたりしていない。DJとも事前にどんな曲をかけるか打ち合わせをしていなくて、たとえばビートがない長いホーンの音だけで始まる曲をかけたりする。そうすると僕にはリズムのないドローンに聞こえるし、観客も手拍子をするビートがない。

DA
そういう時はどう対応するんですか?

クジョー
「どうにでもなれ」と自分に言い聞かせて、頭の中でリズムを刻んでそれに合わせて踊るんだ。それが果たして実際にかかっていた音楽とマッチしていたかは後になってビデオを確認しないとわからないんだけど、不思議なことにマッチしていることが多い。ダンスのところどころで入れているアクセントが音楽に合わせて入れているように見えたりするんだ。

DA
音の振動に反応してることはあるんですか?

クジョー
音の振動を体で感じながらダンスするという人は確かに多いんだけど、僕の場合はそういうことがほとんどないんだ。なぜなら音の振動は物質の表面やスペースの大きさによって違う響きかたをするから結局、音楽と会場によって感じ方が変わってしまう。僕はスネアなどの高音が全く聞こえないんだけど、ベースなどの低音が大きすぎても脳みそが揺れているような気がしてリズムが取れなくなってしまう。

その反面、音楽が自分に直接訴えかけてくるような瞬間はあるんだ。それは音の振動なのかもしれないし、その音楽が持つ神秘性みたいなものかもしれない。自分でもよくわからないんだけど、ある音に対してやっていることを全部やめてただ聴くことだけしかできなくなることもあるし、首の裏の毛が全部立ち上がるような感覚に襲われることもある。それはジャンルに関係なくヒップホップでもメタルでも民族音楽でも、またはある特定の楽器の音だけでも起こりえることなんだ。

DA
とても興味深いです。今はイル・アビリティーのメンバーとしてこういった聴覚障害者としての体験をフランクに話していますが、以前はどうだったんですか?ダンサーとしての評価の妨げになると感じたりしましたか?

クジョー
以前は障害のあるダンサーとしてはみられたくなかったから、できるだけ隠し通してた。自分の中で恥じている部分もあったと思う。誰かと会話をしていて、その人が言ったことを聞き取れなかったために突拍子もない返答をして相手がびっくりしたり、「こいつは変なやつだ、クレイジーだ」と思われることがよくあった。それが自分のキャラクターの一部になっていったけど、それは同時にただ相手の言っていることを理解できていなかっただけでもあった。

僕は手話もできないし、発話も今ではほぼ普通にできるようになったので、聴覚障害者だと思われることが少ない。ダンスを通して人としての自信もついたし。だからブレイクダンスのコミュニティーの中でもこのことを知っている人たちはごく少数だった。イル・アビリティーズを通して初めてオープンに話すようになったんだ。僕らは障害のある人たちがどれだけヒップホップに貢献できるかを広く世に知らしめるために活動をしているわけだから。イル・アビリティーズとして活動をはじめてから「あいつのことは20年以上知っているけど、聴覚障害者だということは知らなかった!」というような反応はたくさんあった。

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自分の限界に挑み、最も良いヴァージョンの自分を世界に見せる

DA
イル・アビリティーズに加わって、これまで隠していた自分のアイデンティティーを公にすることには抵抗はなかったんですか?

クジョー
うん、全くなかった。正直に話せる機会があることがとても意味のあることに思えたし、この部分を知らなかった古い仲間たちが自分をより深く理解してくれた。新しい対話のきっかけにもなった。

DA
ヒップホップ文化の中でスキルを磨いて競い合うこと、そして勝つことに大きな重点が置かれることがあります。これはスポーツでも同じですね。クジョーもダンサーとして成り上がってゆく過程で他の人よりも上手くなることにたくさん時間を費やしたのではないかと思います。ただ現在の活動のように多様な能力や特徴を持った人たちや競い合うこととは違うモチベーションを持った人たちにダンスを教えるときにはどのようなアプローチをしていますか?

クジョー
はじめたばかりの頃は一番のBボーイになるためには全てのバトルに勝たなければいけないと思っていた。だけどダンスを続けていく中で一番うれしいコメントは「今まで見た中で一番のダンサーだ」ではなくて「今までで最もユニークなダンサーだ」や「そんなことをする人を見たことがない」といったものだということに気がついたんだ。そういった体験から段々と自分の役割は大会に出て勝つことではなくて、自分の限界に挑み、最も良いヴァージョンの自分を見せることだと思うようになった。そして最もユニークで革新的であることで他の人にも同じように最良の自分を目指すように刺激を与えられるのではないかと思ったんだ。もちろん他の人よりも上手くなりたかったし、負けることは大嫌いだったけど、僕の場合は大会に出ることよりも自分を表現することの方が大事だった。最初にメンバーだったダンスクルーはいつも大会に出たがっていたから正直辛い部分もあったんだけど、良い結果を残していくとそれがより多くの人に自分のベスト・ヴァージョンとオリジナリティーを見せることができるという側面もあった。

そしてこの「自分に挑む」という考え方は障害のある人たちと一緒にやるときにも有用なんだ。たとえばイル・アビリティーズのクレイジー・レッグスのように下半身に障害があるとブレイクダンスで最も基本的な動きであるフットワークができない。そのためほとんどの大会では勝つことができないだろう。だけどそのフットワークを自分の体に合わせて解釈し直すと自ずとそれは他の誰にもできないオリジナルなものになる。そう見てゆくと決められた形式にあわせてダンスをするのではなくて、いかに自分だけのオリジナルの動きを創造できるかという自分自身との競い合いになってゆく。僕らはこういった視点や考え方をブレイクダンス・コミュニティーに持ち込みたくてクルーとして団結してるんだ。

形にとらわらない自由なブレイクダンスの場としてのオリンピック

DA
ブレイクダンスがスポーツの一部としてオリンピックで競われることについてはどう考えてますか?

クジョー
僕が今、イル・アビリティーズと同じぐらいに力を注いでいるのが「ブレイキング・フォア・ゴールド」というオリンピック出場のための大会や審査のサポート。正式な役職としては審査委員長としてアメリカ国内で行われる予選大会のジャッジを総括するとともに、国内外の大会の審査も積極的に行なっている。これは自分にとってとても大きな意味を持つ活動なんだ。これらの大会ではトリビィウムと呼ばれる審査方式を導入していて、それは規範的な審査ではなく、より記述的な審査を目指している。たとえばある演技に対して規範としてリストアップされているフットワーク、パワームーブ、トップロックなどの動きをどれだけこなしているのかというふうに審査するのではなく、その演技がある文脈の中でどのようなことを成し遂げているのかを記述してそれを審査する。この審査方式だと定型的なブレイクダンスの形にとらわれることなく、より自由に競い合うことができる。

DA
オリンピックでのブレイクダンスの審査方式はよりインクルーシブであると?

クジョー
障害のあるダンサーが出場できるように設定されているわけではないけれども、あらかじめ決まったチェックリストに頼らず、より幅広い基準で審査できるようになっている。例えばダンサーとしてフットワークをほとんどやらなくても他の多くの部分で相手より優ることで競い合うことができる。そう言った意味ではよりインクルーシブだといえる。最近はブレイクダンスがオリンピックに加わることに強く反対する意見が減っているような気がする。それは多くの人が実際に大会を見て、これが他の大会のようにただ賞金や予選を勝ち上がってゆくためのものではなく、より大きな意味を持っていることを感じ取れるからだと思う。

DA
とてもエキサイティングですね。クジョーのダンサーとしてのこれまでの道のり、とても印象深いものですが、最後に自分のアイデンティティーや仲間を見つけるために色々なことを試している若者に何かアドバイスはありますか?

クジョー
考え方や態度が全てだ。僕らは自分自身をどう捉えるかで自分を限界づけている。それはたとえば親や先生が「あなたはそれが得意ではない」と言ったりすることによっても影響を受けるが、そういうものも含めて自分のポテンシャルを押さえつけてしまうような考えはいらない。単純なことに聞こえるかもしれないけど、どうやって自分への態度を変えてゆくかが重要なんだ。

イルアビリティーズの活動とブレイクダンスの大会の審査の合間、クジョーはパワーリフティングの選手としても活躍しており、自己の体重クラスでの世界記録を目指してトレーニングを続けている。


関連人物

ジェイコブ・ライオンズ(クジョー)

(英語表記)Jacob “Kujo” Lyons

(ジェイコブ・ライオンズ(クジョー)さんのプロフィール)
15歳からダンスをはじめ、「Bボーイ・クジョー」や「クレイジー・クジョー」の名で超人的なパワームーブを繰り出すユニークなブレイクダンサーとして世界的に活躍。生まれつき右耳が感音難聴のために全く聴こえず、左耳も伝音難聴を度々患うものの、国際ブレイキング・クルーのイル・アビリティーズのメンバーになるまでは多くの人は彼が聴覚障害者だということを知らなかった。現在はイル・アビリティーズの活動に加え、多くの国際大会でジャッジ、ブレイキング・フォー・ゴールドの審査委員長、そしてパワーリフティングの選手として活躍をしている
(ジェイコブ・ライオンズ(クジョー)さんの関連サイト)