ストーリー
壁際でこちらを見つめる伊藤亜紗さん。

(カテゴリー)インタビュー

「障害の活かし方」を考えることで、私たちはもっとたくさんのことを学べるし、感じることができる。

伊藤亜紗 [美学者]

クレジット

[写真]  在本彌生

[文]  和田紀子

読了まで約14分

(更新日)2020年11月17日

(この記事について)

美学と現代アートを専門とする伊藤亜紗さんは、障害がある方の身体感覚についての研究でも注目されている。著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)の中で、「健常者が障害者をサポートするという福祉的な視点も重要ですが、それと同時に、『障害の活かし方』をもっともっと開いていく必要があるのではないでしょうか」と提言する伊藤さん。そのメッセージは、私たちが障害のある方たちとどう向き合うべきなのかを教えてくれる。

本文

障害のある方の身体感覚を知ることで、自分がいかに自分の体や感覚の一部しか使っていなかったのかと気づかされる。

― 「障害の活かし方」というひと言に、とても衝撃を受けました。伊藤さんは障害のある方をどのような存在としてとらえていますか?

今回の新型コロナと関連して言うと、今は私たち全員が接触障害者になっているとも言えます。そんな不自由さの中で、自分でも驚くほど不安を抱え、ストレスを感じていた私を救ってくれたのが障害者の方たちでした。全盲の友人に誘われて、さまざまな障害のある方たちとオンライン飲み会をしました。今の生活や感じている不安、これからの世界について語り合いながら、彼らの発する言葉の確かさに心底ホッとしたのです。

私のような研究者やテレビに出ている科学者が誰ひとり真実を知らず、仮説でしか語れない。日々状況が変化し、一度こうだと言われたことが数日後にはひっくり返る。何を信じていいのかわからない中で、彼らのひと言ひと言はすごく地に足がついていました。

彼らは何十年と障害と共に生きるべく、自分の体と向き合い研究し続けてきた人たちです。さまざまな工夫を積み重ね、障害のある体を少しでも居心地よいものにしようと格闘してきた長い時間の蓄積こそが、彼らの体を唯一無二のものにしている。その体から出てきた言葉は、ものすごく実感がこもっていて、安心感がありました。

 

― 障害のある方の体から出てきた言葉を聞くことの意味とは何なのでしょうか?

障害者というのは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人です。ゴールは同じでも、やり方が違う。

障害者の言葉を聞くことは、彼らの身体感覚を知ること。それによって、自分がいかに自分の体や感覚の一部しか使っていなかったのかと気づかされると同時に、自分にとっての当たり前が、彼らにとってはそうでないことを思い知らされます。自分の常識や概念が覆されることが、単純におもしろい。

触覚によるコミュニケーションからは、視覚で認識するのと違う顔が見えてくる。

― 具体的に障害のある方のどのような身体感覚を知ることで、自分の常識や概念が覆されたのでしょう。

例えば、手や足を切断して幻肢のある方は、低気圧にものすごく影響されるので、赤道あたりで発生した台風がわかると言います。外出がままならない病を抱えた方は、分身ロボットを使って海外旅行にしょっちゅう行っていて、分身ロボットが映っている写真を見て、「確かに自分はそこにいた」と言うのです。

そうなると、どこまでが体なのか? これまで自分が思っていた体の概念すら変わってしまいます。それがものすごくおもしろくて興奮します。

今ちょうど、触覚についての本を書いていますが、24時間介助を受けている筋ジストロフィーの方は、介助者ひとりひとりとの接触による関係性が違うと言います。

介助には正解がなく、Aさんとの関係、Bさんとの関係というのがたくさんあって、それは私たちにとっての恋愛関係にとても近いように思います。恋愛や結婚というのは、触覚的人間関係をOKにすることだと思うのですが、そこからわかる相手の人間性のようなものがありますよね。

 

― 確かに触覚は、一対一の非常にパーソナルなもので、当人同士の間でしか起こりえない、わかりえないものです。

誰かが自分の体に触れるとき、どんなふうに触れるかはひとりひとり違っていて、そこでわかるのは、視覚から見えるものとはまったく違う別の顔です。障害のある方が、そちらの顔のほうをより知っていることがおもしろい。私たちが社会的に地位や職業、趣味などで人間関係を作っているのと同じような濃密さで、彼らは触覚的な人間関係の中で過ごしています。

もちろん、私たちも握手をしたり、体に触れられたりした瞬間に、相手が自分をどう思っているのかを感じ取っていますが、障害のある方は、私たちの数百倍の感度でそれを感じています。障害のタイプによっては常に誰かに触れたり、触れられたりする生活を送っているので、触覚がコミュニケーションの基本で、そこから得られる情報量がとにかくすごい。それを一番感じたのは、視覚障害者のランニングサークルでの伴走体験でした。

 

自分を開けないでいると不安になる。100%身を委ねることで、関係が深まっていく。

― 伊藤さんが、目の見えない人を伴走して走られたことで、触覚のコミュニケーションをより強く感じられたのですか?

目の見えない人を伴走する体験も確かにおもしろかったのですが、私が目隠しをして伴走者にガイドしてもらう体験が衝撃でした。

輪になった1本のロープの両端をそれぞれが握って走るのですが、最初は怖くて一歩も進めなかったのが、これはもう伴走者を信じるしかないと思った瞬間、ロープを通じて相手の感情や状態が驚くほどの生々しさで伝わってきたのです。

相手が自分の中に入り込んできて、自分ではなくなってしまうような、自分を手放してしまった感。それがものすごく心地よかった。人を100%信じることの気持ちよさとでもいうのでしょうか。

 

― つまり相手を信用しないと走れないということ?

そうなんです。相手を信じていれば、例えば坂があったとき、「ここはがんばりどころだよ」ということがロープを通して伝わってくる。

それが伝わるのは、自分を開いて完全に身を委ねているからこそ。そうすると、不安や恐怖はなくなっていきます。

でも、相手を信用せず、相手は相手、自分は自分というふうに線を引いてしまうと、その程度の範囲でしか相手からの情報が入ってこない。相手のことがわからないから不安になって、足がすくんでしまうのです。

 

― 自分を開けば相手がわかり、自分が閉じれば相手のこともわからない……。

まさにそうで、目の見えない方の世界を知ることで、相手に自分を預けるほど、相手のこともよくわかり、関係が深まるということを教えられました。

それと同時に、これまで「信じる」ということをいかに普段の自分はやっていなかったのか、いかに相手の領域に少ししか踏み込んでいなかったのかと、自分の人間関係の狭さと浅さ、器の小ささを思い知らされましたね。

「自己責任論」が強い日本において、日常的に相手を「信じる」ことをしている障害者の世界を知ることは重要。

― とはいえコロナ禍の今、これまで以上に相手の領域に立ち入りにくくなっているという現実があります。

触覚が禁じられる世界になった今、物理的な接触以上に心に触れることができなくなっていると感じています。特に日本は自己責任論が強く、相手に身を委ねられない国になってしまっている。そういう意味でも、障害のある人方たちの世界を知ることはすごく重要です。それもひとつの障害の活かし方。

目の見えない人は、ほとんど初対面の人に自分の命を預けるということを常にしています。街中で困っているとき、「大丈夫ですか?」と声をかけられて、もしかするとその人は自分に危害を加えるかもしれないけれど、信じて対処してもらっている。障害のある方たちは、信頼という問題とものすごく深く関わって生きていらっしゃるのだと感じますね。

 

― 全盲の方は、街中で介助を受けるとき、見知らぬ人を「信じよう」と自分に言い聞かせているということでしょうか?

言い聞かせるように「信じる」ことをやらざるを得ない。ある種の気合みたいな感じだと思います。何が起こってもしょうがないという感じで信じているのでは? 

信頼というのはすごくおもしろい感情で、社会心理学で「信頼」について語られるとき、「信頼」と「安全・安心」は一見似ているようで、まったく対極のものであると解釈されています。

「安全・安心」は自分がコントロールできない不確定な要素をなくし、限りなくリスクがゼロに近い状態。つまり管理された状態です。いっぽうの「信頼」は、何が起こるかわからないし、リスクがある、不確実なものがあるとわかってはいるけれど、でも大丈夫だろうと思うこと。

 

「安全・安心」を目指すより、「信じる」ことのほうが合理的。

― 「信頼」は、リスクも含めて受け入れるということなのですね。

「信頼」とは相手に任せることで、本来、生きているとそういう局面のほうが多い。100%の安全・安心など本来はあり得ないのに、それを目指そうすると労力が増して不合理になっていくという逆転現象が起こります。

むしろ「信じる」ことのほうが、一見すごく不合理なようでいて合理的です。見えない人に限らず介助を受ける人は、最初に人から触れられるときにとりあえずは信じて、いざ接触してしまえば、そこからコミュニケーションが始まります。触れたり、触れられたりといった接触的関係性を作りながら、次第に安心へと変わっていくのではないでしょうか。

 

― 日本人があまり自分を解放できないのは、触覚が苦手ということもあるのでしょうか? 西欧だと、まずはハグから入る文化があり、一度ハグしてしまえば、お互い委ねてしまえるというような感覚がありますよね。

何か関係しているかもしれないですね。特に今の若い世代は、人に委ねて信頼すると、相手の情報が自分の中に入ってきて感情を揺さぶられてしまう、自分の形が変化してしまうことに対して、とても嫌がりますよね。

むしろ障害のある方のほうがよっぽど自分の形が変わることに対して大らかで、人を信頼して委ねていると感じます。

考えながら話す伊藤亜紗さん。

障害が触媒となることで、人と人を結びつける。

― 自分を解放する鍵が触覚にあって、それを障害のある方が知っているというのは、とてもおもしろいなと思います。「信じる」ことのほかに、障害のある方から私たちが学べることは何でしょうか?

障害のある方と一緒に何かをしようとして「できない」となったとき、いかに「できる」ようにするかを考え、工夫することがおもしろいですね。

例えば、視覚障害者の方と市販のボードゲームをしようとすると、そのままでは遊べないので、ルールやツールを作り変えます。それを考えるプロセス自体がもはやゲームで、私たち健常者も一緒になって新しいゲームの世界を楽しむことができる。

視覚障害者と美術鑑賞をするワークショップ「ソーシャル・ビュー」も同じです。見えない人がいることによって、見える人が自分の解釈を言語化する。すると、自分の見方が明確になり、その場にいる健常者も他人の目で絵を見るおもしろさを味わえる。それはまさに新しい美術鑑賞のカタチとなる。

「見えない」という障害をみんなで引き受ければ、それが触媒となって、その場のコミュニケーションが変化したり、人と人を結び付けたり、新たな活動を生み出したりすることができるのです。

 

― 障害が触媒になってコミュニケーションが変化して、新たな活動が生みだされる。それがひとつの「障害の活かし方」ということでしょうか?

その前提として、障害のある方とどういうスタンスで向き合うかということがいえると思います。

障害のある方と話していて、私が「それ、おもしろいね」と言うと、「え、そうなの?」という反応をされることがあります。ご本人の苦労はもちろん大きいものですが、その過程で見出された体の可能性には驚かされることが多々あります。

 

なにかを手放すことで、違う可能性が開けることもある。

― 具体的に、どのようなところに障害のある方の体の可能性を見いだされるのでしょうか?

例えば、見えない人は耳の働かせ方、足腰の能力、言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。それらの使い方を変えることで、視覚がなくても立てるバランスを見つけている。

目が見えなくなった人が、「見えなくなってから、かえって転ばなくなった」という声をしばしば耳にします。それはつまり目が見えなくなったことによって、足で対象を触覚的にサーチする能力だったり、危険を感じたらすぐに重心を変えられるような平衡感覚が鋭くなったということ。見えないという部分的特徴が、体全体の使い方をまったく別ものに変えてしまうのです。

障害と無関係な人はいません。誰しも必ず年をとり、病気になったりして、これまでできていたことができなくなります。でも、それを手放したとき、実は自分がものすごく変身する可能性を持っていたことが見えてきます。

 

― 手放すということはできないことを認めることになるので、辛いだろうなというイメージがあります。

でも、同時にその状態だから知っている価値みたいなものもあります。

例えば、認知症にもさまざまなタイプがありますが、タイムトンネルみたいなものができていて、パッと時間が変わって小学生になったり、会社員になったりする人がいます。今、自分が何歳で、こういう立場で、こういう状況でということをすべて手放しているからこそ、タイムトラベルができているとも言えるのではないでしょうか。

 

― 認知症をタイムトラベルと考えると、とても自由な感じがしますね。

自由さと辛さの両方ありますね。

 

― 辛さというのは?

周囲がその自由さを理解してくれない辛さです。周囲が知っている自分の姿ではなくなってしまった現実を受け入れられず、抵抗されてしまうので。

 

純粋に「おもしろいね」と関わることで、障害を活かすことができるのではないか。

― それならば、周囲はどのように認知症をとらえるといいのでしょうか?

絶対的な答えはないと思いますが、もし私がそういう立場になったら、一緒にタイムトラベルに連れていってもらいたいという感じでいたいと思います。認知症の方と会話をしていると、どんどん時間が変わっていくので、本当に旅についていっているような感じがしておもしろい。

彼らをただ手を差し伸べるべき対象として見るのではなく、純粋に「おもしろいね」と、いい意味で好奇の目を持って関わっていくことで、障害に価値を与え、活かすことができるのではないかと思います。

先日、義足を使い始めた方と全盲の方に対談をしてもらったのですが、まったくタイプの違う障害のある方同士が会話をすると、自分の体や感覚について、どう伝えたら相手にわかってもらえるかを考えるので、それまで使ったことのない言葉を発したりします。それがすごくクリエイティブでおもしろい。

最初は共通点がまったくなかったのが、話していくうちにふたりの共通言語として出てきたのは、盲導犬と暮らすことと義足を使って暮らすことは似ているかもしれないということ。どちらも自分の体の一部であって一部でない。思い通りにならないことが重要で、だからこそ信頼できるというのです。思い通りになったら、それは単なる道具に過ぎない。義足も盲導犬も自分ではコントロールできないものと関わっているという感覚がすごく大事なのだと。

 

― 先ほどの信頼の話に通じますね。私たちもコントロールできないものと生きているはずなのに、なかなか自覚できないし、意識もしていません。

コントロールしなくては、というプレッシャーもありますからね。

 

― タイプの違う障害のある方に対談してもらう狙いは何でしょうか?

共通点がまったくない人同士で共通言語を作ることがすごく重要だと思っています。このときも、お互いの接点が見えてくると、ふたりの会話が次第にママ友の会話のように親密になり、しまいには義足の人が自分の義足に名前をつけようかなと言い出しました。

違った障害のある方が出会い、対話することで触発され、共通点を見出したり、ものの見方が変化したり、お互いの関係が深まっていく。それが大事で、そこで起きていることは、近頃「多様性」と言われるときに起きていることとは真逆です。

「多様性」という言葉で分断を肯定し、安直なラベリングをしてはいないか?

― 伊藤さんは「多様性」という言葉の氾濫に警鐘を鳴らしていらっしゃいますね。

ダイバーシティ(=多様性)という言葉が使われるとき、みんなそれぞれ違うから、それぞれ尊重しましょう、でも干渉しないようにしましょうと、むしろ分断を肯定しています。今の学生たちを見ているとまさにそうで、干渉しないから干渉しないでね、とお互いの領分を守る意識がとても強いと感じます。自分の感情を表に出したり、人の感情を揺さぶってしまうことに対する警戒心がとても強い。

例えば、授業で自分の作った作品を発表させると、「この作品は刺激の強い表現が入っているので、苦手な人は見ない方がいいかもしれません……」と長い前説を述べる学生がいます。でも、実際はグロテスクでもホラーでも全然ない。その学生は、できる限り人の心を揺さぶりたくないのです。それは、ある種のやさしさではあると思いますが、逆に壁が高くなってしまっていると思いますね。

 

― いろいろと気遣うあまり、自分と相手との間の壁が高くなっている……。

そこには隔たりができていますよね。自分を守りたいがゆえに相手を揺さぶらない、揺さぶられたくない。その時点で分断されています。ダイバーシティということの、ひとつのネガティブな弊害かもしれません。

 

大切なのは、一人の人間の中にある多様性。

― 本当の意味での「多様性」はどういうものだと考えていますか?

人と人との違いという意味での「多様性」は、安直なラベリング効果に繋がりがちです。視覚障害者に関して言えば、「見えない人はこういう人」というイメージに当てはめられてしまうので、どうしても演劇的関係に陥りやすい。相手が要求しているキャラクターを演じさせられて、そうではない部分を拾ってもらえないということがよくある。それってすごく苦しいことです。重要なのは「さまざまな人がいる」ということではなく、一人の人間の中にある多様性です。

「視覚障害者」というのは、その人を構成する要素のひとつに過ぎません。その人に多様な面があると思えば、関わり方の選択肢も増えるし、自分には見えていない部分があるということで、相手を尊重できるようにもなる。「違うこと」が障壁になるのではなく、もっとフラットにお互いの共通点と差違を見出し、相手を思いやったり、違いをおもしろがれたらいいのではないかと思います。

 

― 違うことを「おもしろい」と言い合える関係性がたくさんできていくといいですね。

先ほどの、全然違うタイプの障害のある方同士の対談もそうですが、自分にとって理想的ではない相手と関わったほうがおもしろいし、本人も自分の可能性に気づけます。予定調和なものより、想定外のもののほうが断然力を持っています。

そういう意味では、外部の風をいかに取り込むか。例えば私のような医者でも介助士でもなんでもない人間が「おもしろいね」と関わっていくことが、けっこう大事なのではないでしょうか。ただ、それを制度化してしまっては意味がない。

 

― 多様性を制度化することなく違いを受け止め、楽しむためには、どのような方法があるでしょう?

実は今年の2月から、未来の人類研究センターを立ち上げて、最初の5年間は「利他」をテーマに掲げて活動しています。利他とは、自分のためではなく、自分でないもののために行動すること。とはいえ、人間の行為は、結果をコントロールできません。こちらがよかれと思ってやったことが、相手のためになっていないということが結構あります。

例えば、割りばしを割って今日の運勢を占うことを楽しみにしている認知症の人に、割りばしを割って渡してあげたら、その人のためにはなっていませんよね。

「利他」で大事なのは、積極的に相手に何かをしてあげるのではなく、自分の中にスペースを作ることです。他者がするりと入り込める隙間があれば、想定外なものに出会ったとき、それをキャッチすることができる。そうした偶然の出会いを逃さず、切り捨てず、次につなげていくことが大事なのではないかと思います。


関連人物

伊藤亜紗

(英語表記)ITO Asa

(伊藤亜紗さんのプロフィール)
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。専門は、美学、現代アート。障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。主な著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社) など。
(伊藤亜紗さんの関連サイト)