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(カテゴリー)INTERVIEWS

(タイトル)“アウトサイダー・アート”の生みの親、 ロジャー・カーディナルに訊く(1)

インタビューア:ロジャー・マクドナルド

(この記事について)

1970年代は、人々の感性に“オルタナティヴなアート”が届き始めた、ひとつの時代の切れ目だった――1972年、ジャン・デュビュッフェが提唱したアール・ブリュットを、ある文脈において翻訳・継承し、著書『アウトサイダー・アート』によってその定義を広げたイギリスの美術評論家、ロジャー・カーディナル。“アール・ブリュット”と同じく、さまざまに語られてきたこの言葉が生まれた背景とは。そしてそこから流れていった45年という歳月を、カーディナル自身はどのように見てきたのか。氏の教え子でありキュレーターのロジャー・マクドナルドが、ロンドン郊外の自邸を訪ねた際にインタビューを行った。その全文を数回に分けて紹介していく。

(更新日)2017年5月21日

(写真について)

Photo: Nahoko Morimoto

シュルレアリスムからアール・ブリュットへとつながる通路

ロジャー・マクドナルド(以下、マクドナルド):カーディナル先生は、1972年に歴史的な著書、『アウトサイダー・アート』を執筆されました。この本を書くことになったきっかけについてお話しいただけますか。

ロジャー・カーディナル(以下、カーディナル):1970年に、私は友人のロバート・ショートとともに『シュルレアリスム[イメージの改革者たち]』01という本を執筆しました。この本を出版したのは、「Studio Vista」という小さな出版社で、当時はシュルレアリスム02アバンギャルド03についての本をシリーズで手がけていました。同じころ、私はパリでシュルレアリスムのリサーチをしており、この出版社の編集者から「何か書きたいテーマはないか」と聞かれたのです。私は、その問いに対して、心酔していたアルチュール・ランボー04の名前を挙げました。後のシュルレアリストたちに大きな影響を与えたフランスの詩人であり、放浪者、そして異端者でもあったアルチュール・ランボーが残した文章、言語的イメージについて執筆したいと。

私は、ランボーについてのリサーチを進めるうちに、ランボーについて執筆するということは、すでに出尽くしている資料をただ再編集するだけの独自性に欠いた作業なのだと気がつきました。しかしその一方で、このリサーチは視覚芸術の分野で何かが起こりつつあることにも気づかせてくれました。私がこの後、アウトサイダー・アートの世界へと移っていったことと、シュルレアリスムの本の執筆のために長期に渡って視覚資料と向き合ってきたこととは、無関係ではなかったのです。

そしてある時、ある人からジャン・デュビュッフェ05が提唱する「アール・ブリュット06」について、これまで考察したことがあったかと聞かれました。私は、いわゆる“非アカデミック07”なアートの世界で起こっていることに、それほど精通はしていなかったものの、ランボーのリサーチの中でいくつかの共通点のようなものを見出していました。――“夢”という世界を真摯に捉えること、“イマジネーション”をあらゆるクリエイティブワークの原初的な要素とすること。上手くいかなくてもいい、予想もしなかったような偶然性にゆだねてもいい――これらは、ランボーが実践してきたアイデアでした。私は、シュルレアリスムをめぐる多くの考察の中から、自分自身で何かを生み出し、それについて知ることができるだろうかと、どこかで考え続けていたのだと思います。だから、アール・ブリュットへとフォーカスを移すことに、それほど時間はかかりませんでした。


ジャン・デュビュッフェが芸術世界に起こそうとしていた革命

マクドナルド:その頃、ジャン・デュビュッフェのことは、すでにご存知でしたか?

カーディナル:知ってはいましたが、彼が発信していたアール・ブリュットの哲学によって人々が影響を受け、革命的な運動を生み出していることには気づいていませんでした。私は、彼が言わんとすることが、どのようにアヴァンギャルドの常識と接続するのかを注意深く見ていました。デュビュッフェは当時、確かこのようなことを言っていたかと思います。

「あなたが完全に見過ごしてしまっている“別の何か”がある。普通の暮らしや、暮らしをよりよくすることから挫折しかかっている人たち、突然の不幸に見舞われた人たち、ガールフレンドから一度も返事をもらえなかった(失恋した)人たち。人々が無関心やに陥るのには、多くの理由がある」

マクドナルド:つまり、誰もが明日、アール・ブリュット作家になる可能性を秘めていると。

カーディナル:私は、シュルレアリスムのリサーチの中で、自殺などについても考察してきたので、デュビュッフェのこの言説には敏感に反応しました。シュルレアリスムは、アンチ右翼の立ち位置も利用していました。たとえばシュルレアリストたちは、彼らにとっての敵であるブルジョア階級や教育システム、政治的右翼を激怒させるという目的のためだけに、マルキ・ド・サド08を英雄として祭り上げたのです。こうしたことが同時におこっていた193040年代当時の背景を知ることで、私がデュビュッフェの理論の中に素晴らしいものを見つけたのは明らかでしたし、彼の論争を読み始め、デュビュッフェもまたシュルレアリストなのだと感じたのです。デュビュッフェは、私たちが深く知り、尊敬するべき人物。常に心にとどめ、ともに旅をするべき英雄の一人なのだと。

マクドナルド:そこから本の制作へと入っていったのですね。

カーディナル:そうです。デュビュッフェの考察について編集者に話をすると、「それはおもしろい試みだ、ぜひリサーチを進めてほしい」という返答がありました。私はこの本の企画書に、確か「ありのままの芸術」というタイトルを付けました。

アウトサイダー・アートにまつわる議論の多くは、「私は誰なのか」という問い、個人の内面に深く切り込むことへとつながります。つまり、この本に取り組むということは、危険で挑発的な要素を含んでいる。二度と本を書くことができなくなるかもしれないほど、著者を傷つけうる題材でした。

マクドナルド:それは、当時のメインストリームの芸術世界には、今から想像もできないほど凝り固まったルールやしがらみがあったということ。それに対抗する行為で、相当反感を買うような題材だったということですね。

カーディナル:そうです。しかし、当時の私は40代前半で、この重荷を背負うだけの若さがあった。私は、この本に弾薬を込めるため、デュビュッフェのいるパリへと向かいました。これは、私にとってはデュビュッフェに対する知的な奇襲だったのですが、彼はあまり気に留めていないようでした。対面したときには、彼はすでに本の企画書と、第一章あたりまで目を通してくれていました。デュビュッフェは、自身が関わったアール・ブリュットの概要に触れる数冊のパンフレットやシリーズ本をもとに、3週間に渡って私に解説をしてくれました。それは、彼が過去に134名のアーティストの作品に目を通していった調査記録でもありました。デュビュッフェは本当に、ゲリラ戦の男でした。このような著作をもって、疑うことを知らないパリジャンの芸術の世界に戦いを挑んだのですから。

マクドナルド:この背景の中でのデュビュッフェのアール・ブリュットは、今よりも遥かにポリティカルな要素をんでいたのですね。

カーディナル:そうです。しかし残念なことに、ほとんどの人は長い間、彼の試みに気づいていませんでした。

マクドナルド:アール・ブリュットが生まれた1945年から、あなたが『アウトサイダー・アート』を出版するまで、およそ27年の開きがありますね。私が知る限り、その歴史を振り返ってみても、この27年間に研究者や批評家によって、アール・ブリュットが表立って取り上げたれた痕跡は見当たりません。いかにあなたが先駆的だったかということだと、私は思っています。


出版された『アウトサイダー・アート』を、 はじめに手にした人々

マクドナルド:カーディナル先生はご自身の著書の中で、当時デュビュッフェが“アカデミックなアート”をどのように批判していたかについて、「オルタナティヴなアート」という言葉を使って書かれています。アートが常に拡張し続け、すべてを取り込んでいくようにも感じられる現代から見ると、当時の状況はまるで別世界のようです。当時のアートは、そんなにも厳密に管理され、統制されていたのでしょうか?

カーディナル:あの頃のような統制された状況は、今となってはすっかり過去の話になりましたね。当時、私は『アウトサイダー・アート』の執筆を始め、聞いたこともなかった無名のアーティストたちの名前を、ようやく知り始めていました。“物事が起こる”のに、正しい時期が訪れようとしていることを肌で感じていました。しかし実際には、私の本はほとんど無視されたままでした。アメリカで文庫本が、イギリスでハードカバーが出版されましたが、全く売れませんでした。しかし一方で、多くのアーティストがこの本の存在に気づいてくれたのです。彼らはすでに「オルタナティヴなアート」への世界へ入っていく準備ができていたのだと思います。

マクドナルド:最初にこの本を手に取ったのはアーティストたちで、それを追うように批評家や美術史家などが読み始めたんですね。

カーディナル:私は1972年に本を出版し、1979年にはロンドンの〈ヘイワード・ギャラリー〉でアウトサイダー・アートの展覧会を開催しました。それ以前にも、デュビュッフェは自身のコレクションの一部を展示したことはありましたが、アウトサイダー・アートがこれほどまで人の目に触れるようなことはなかった。このことにおいても、私の仕事を認めてくれたデュビュッフェには、本当に感謝しています。彼は英語がそれほど話せなかったので、私の本を読んではいないでしょうが、私がどこへ向かおうとしているのかを知っていましたし、この大胆なてを喜んでくれていたと思います。

マクドナルド:“どこへ向かおうとしていたのか”。この本の具体的な内容とは、どういうものだったのでしょうか。

カーディナル:この本は、デュビュッフェの仕事の重要な部分を要約したものに、知的な論争をさらに豊かなものにするため、私が探してきた知識人たちの言葉を加えて完成させました。その知識人たちとは、アドルフ・ヴェルフリの世話をし、彼に関する最初の本を書いたヴァルター・モルゲンターラー09、精神病患者のアート作品の偉大な収集家であるハンス・プリンツホルン10、1950年代から精神病患者たちの芸術性に気づき、才能を伸ばそうと指導していた “グギング・コレクション”のレオ・ナヴラティル11などです。

「ここにもこんなヴィジョンを持った人たちがいる。自殺傾向があるとみなされながら、壁に何かを見いだし創作を始めた人。突然の不幸によって、海から小石を持ち帰り、自分の家の周囲に貼り付けはじめた人」など、私はリサーチでさまざまなアートに触れていくうち、徐々にこのようなアートをノーマルなものとして捉えるようになっていきました。

 

第2回へ続きます)


KEYWORDS(記事中の言葉)

01:『シュルレアリスム[イメージの改革者たち]』

ロジャー・カーディナル/ロバート・S・ショート著(日本語版は、江原順翻訳。1977年パルコ出版)。シュルレアリスムの背景を俯瞰で捉えた一冊。シュルレアリストたちが挑んだ文学的実験と、その有用性について図版を交えて解説している。

02:シュルレアリスム

第一次世界大戦後の1924年、フランスの著述家で詩人、アンドレ・ブルトン(1896-1966)の「シュルレアリスム宣言」によって確立された芸術運動。ダダイズムを継承し、フロイトの思想を基盤としたこの運動は、文学、美術界において革新をもたらした。理性や論理を排除し、夢や幻想、無意識を表現することで、社会の制約的な構造からの人間性の解放を謳った。その実験的技法として、「オートマティスム」(自動記述)や、デペイズマン(違和効果)が用いられている。パリに端を発したこの運動は、20世紀において世界的な影響を及ぼした。

03:アヴァンギャルド

ここで使われるアヴァンギャルドとは、“前衛美術”を指す。既成の芸術概念や形式を打ち破る、先駆的な表現方法の開拓を謳う、19世紀末から20世紀にかけて起こった視覚芸術の革命。国家権力やブルジョワ階級への批判の意味合いも含まれていた。1870年の印象派に始まり、フォーヴィスム、キュピズム、ダダイズム、ロシア・アヴァンギャルドなど無数の主義や様式が現れた中に、シュルレアリスムもある。

04:アルチュール・ランボー

1854-1891。“早熟の天才”と称される19世紀フランスの象徴派を代表する詩人。社会的混乱の中で10代後半のわずか数年の間に詩作された、『地獄の季節』『イリュミナシオン』などが、当時のヨーロッパの若い世代を熱狂させ、ひいては文壇までにも革命を起こした。20歳で詩を捨て、職業を転々としたのち37歳で生涯を終えたが、詩作は伝説となり、後のシュルレアリスムにも大きな影響を与えた。

05:ジャン・デュビュッフェ

1901-1985。フランスの画家。ワイン商をしていた父のあとを継ぎ、40歳を過ぎて画家となる。前衛美術運動のひとつ、アンフォルメルの先駆的アーティストであり、1945年、それまでの西洋美術の凝り固まった価値観やしがらみを否定し、精神障害者や未開の人など、正当な美術教育を受けてこなかった人々の絵画を「アール・ブリュット」(生(き)の芸術」と名付け、広めていった。

06:アール・ブリュット

「生(き)の芸術」というフランス語。正規の芸術教育を受けていない人による、技巧や流行に囚われない自由で無垢な表現を讃えて、1945年にフランス人の美術家、ジャン・デュビュッフェが創り出した言葉。その後、イギリスの美術評論家、ロジャー・カーディナルにより「アウトサイダー・アート」と英訳され、世界各地へ広まった。

07:アカデミック

学術的、伝統的、格式に則ったもの。ここでのアカデミックとは、ヨーロッパの大学に影響を受けて創作された、規範的な写実的作風の絵画や画家のことを指す。美術アカデミーは美術界のエリート的な画家を多数排出したが、保守的な傾向が強かった。

08:マルキ・ド・サド

1740-1814。フランス革命時代の貴族で小説家。その名が“サディズム”の語源となるほど、道徳、宗教、法律的な制約を持たない嗜虐性向の強い小説を発表。貴族の特権を利用した娼婦や被差別者への性的乱行や虐待、放蕩などにより、生涯の後半のほとんどをパリの刑務所、精神病院で過ごし、またその作品の多くは獄中の性的妄想から書かれたものだった。当時の貴族社会もまた、水面下での姦淫が慣習となっていたことを表面化させるようなサドの行いは、ブルジョワジーにとって許しがたいものだった。

09:ヴァルター・モルゲンターラー

1882-1965。スイスの精神科医。のちにアール・ブリュット、アウトサイダー・アートの歴史に名を刻む大家、アドルフ・ヴェルフリの担当医だったヴァルター・モルゲンターラーは、精神的安定のために自発的に描き始めたヴェルフリの絵画に関心を持つようになり、1921年『芸術家としての精神病患者』と題した論文を出版。その翌年に出版されたハンス・プリンツホルンの『精神病者の芸術性』も追い風となり、ヴェルフリの絵が売れるようになっていった。

10:ハンス・プリンツホルン

1886-1933。ドイツの精神科医で美術史家。ヴァルター・モルゲンターラーが、アドルフ・ヴェルフリを世に紹介した翌年となる1922年、ハンス・プリンツホルンはヨーロッパ各地の精神病院や機関などから集めた精神病患者の創作を、約150にもおよぶ図版とともに紹介する歴史的著作『精神病者の芸術性』(日本語訳版は、『精神病者はなにを創造したのか アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点』林晶訳、ミネルヴァ書房刊、2014年)を出版。これは、世界で初めて精神病者の創作について研究した本であり、当時の前衛芸術家たちやアール・ブリュットの創始者、ジャン・デュビュッフェにもインパクトを与えるものだった。

11:レオ・ナヴラティル

1921-2006。オーストリアの精神科医。1950年代から、自身の患者たちが描く絵の中に芸術性を見いだし、その才能を伸ばそうと注意深く続けてきた指導は、やがて開花のときを迎える。記録映画や本の出版などによって、世に広く紹介されることで評価が高まり、1970年には展覧会を開催。1981年には、マリア・グギング国立神経科病院の一角に、患者(作家)たちが共同生活をしながら創作に専念できる場所として「芸術家の家」を設立した。

PROFILE関連人物

ロジャー・マクドナルド

(英語表記)Roger McDonald

(ロジャー・マクドナルドさんのプロフィール)

アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]副ディレクター。1971年生まれ。ケント大学にて宗教学修士課程修了後、美術理論にて博士号を取得。博士号では近代アートとスピリチュアリティーを研究。2002年、仲間とともにAITを立ち上げ、現代アートの学校MADを開講、現在もプログラム・ディレクターをつとめる。個人美術館フェンバーガー・ハウス(長野県佐久市)ディレクター。現在は、アートと変性意識の関係をテーマに、研究やキュレーションを行う。

(ロジャー・マクドナルドさんの関連サイト)

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