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連続インタビュー

(シリーズ)アートの境界線に立つ

(このシリーズについて)アートを観る、創る、体験する、学ぶその時、意識に立ち現れざるを得ない「アートとは何か?」という問い。額縁がつけられ、美術館に収められ、ホワイトキューブの中に並べられる作品だけがアートなのか。そのボーダーの上に立ち、日々考える人々に聞く。

(タイトル)第2回 浅葉和子[子どもデザイン教室主宰]

(更新日)2017年6月15日

CREDIT

[構成・文]  井出幸亮

アートを通じて、子どもの心に向き合ってきた50年


浅葉和子/あさば・かずこ
1942年静岡県生まれ。武蔵野美術大学グラフィックデザイン科卒業。68年より横浜市金沢区で子どものデザイン教室をスタート。 子どもの本来もつ可能性をものづくりの喜びと自由な空間の中で育む教育を目指す。児童絵画を通しての異文化交流(エジプト、トルコ、アメリカ、ラオス、タイ、オーストラリア、オランダ、中国、アフリカ、メキシコなど)を行っている。99年より金沢文庫芸術祭を立ち上げ、チーフプロデューサーとして活動。住民の世代を超えた豊かなつながりと町のアート活動の活性化の場として定着している。その他に、ワークショップ講師、アートセラピー講師として各地から招かれ、さまざまなアートイベント・展覧会の主催・企画も行っている。著書に『子どものデザイン教室 魔法のアトリエ』(創和出版)がある。
http://asabaart.com/


3歳の長男と出かけた、111日間のヨーロッパ旅行

武蔵野美術大学でグラフィックデザインを学んで、印刷会社の制作室で2年半ほど仕事をした後に結婚して退職し、家で絵を描いていたら、近所に住む方から5歳の男の子に絵を教えてほしい」と依頼されたのが始まりなんです。1968年のことでした。と言っても、教えるというよりも、子どもと一緒に遊ぶという感覚で、近くの山へ散歩に行って草や木の実を拾ったり、土をいじったりして「今日は何を描こうか」という具合だったんですけれど。それがだんだん口コミで広がって、気がついたら生徒が20人くらいに増えていたので、デザイン教室を始めることにしました。

そうして日々、子どもたちと接していると、彼らの描く絵がだんだん変わってくるのがわかるんですよね。表現の仕方が変化して、ある日、突然花が開いたように、その子の持っている内的な生命力が絵の中に表れてくる。そうした姿を目の当たりにして、この仕事にもっと真剣に取り組まなければと感じ、絵の指導をしている先生方を訪ねたり、本を読んだりして勉強するようになりました。

(写真について)

子どもたちのためのデザイン教室を始めた頃。

そんな中、世界中の子どもたちの暮らしを実際に見てみたいという思いが強くなり、73年に当時3歳だった長男を連れて、111日間・13カ国を廻るヨーロッパ旅行に出かけました。土地ごとの一般家庭にも滞在しながら、子どものための施設を訪ねるという、当時としては大冒険のような親子二人旅でした。

各国それぞれに子どもとの暮らしがあって、とても興味深いものでしたが、特に印象的だったのは北欧の家庭のしつけです。親がすごく忍耐強く子どもの言い分を聞くんですね。子どもが言うことを聞かなくても、感情的に叱ったりしないで、徹底的に話し合い、理解して、説得する。真剣に子どもと向き合うことにエネルギーを惜しまない、その様子に大きな刺激を受けました。

(写真について)

1970〜80年代には玉川高島屋でも教室を開いていた。


子どもたちの心の問題に対してアートができること

その4年ほど後には、アメリカ西海岸を訪れました。3週間滞在して、ロサンゼルスの黒人居住区の小学校やアートビレッジなどを訪ね、実習の授業をしたりしました。その旅の途中、偶然に新聞で日系三世の彫刻家・ルース・アサワさんについての記事を読んだんです。当時はちょうどベトナム戦争が終わった頃で、若い帰還兵たちの精神的疾患が問題になり始めていた時期。子どもたちの犯罪率も上昇していました。彼女はそうした子どもたちに創造の場を与え、その喜びに気づかせようと、小学校でワークショップを開催し、工場から出る廃品の牛乳パックなどを使って、子どもたちに自由にものを作らせ始めました。その運動は地域に少しずつ広がり、10年後にはサンフランシスコ中の小中学校が参加するアートフェスティバルにまで発展していたんです。

さっそく美術館にアサワさんの連絡先を問い合わせ、コンタクトしてみたところ、とても快く迎えてくださいました。彼女は自分の作品を作り、子どもたちの造形指導にあたり、社会運動にまで高め、なおかつ6人の子どもを育てていた。私がやってきた造形活動についてもすごく理解してくれて、自分にとって本当に尊敬できる人物として大きな出会いになりました。

(写真について)

デザイン教室は絵だけでなく、子どもたちが自由な造形を楽しむ場。

子どもたちの精神的な問題はアメリカだけでなく、日本でもやはり70年代の半ばくらいから、受験教育の激化とともに、家庭内暴力やいじめ、不登校などの問題が急激に出てきていました。私自身、そうした話は新聞やテレビの中でのことだと考えていたんですが、85年に金沢区の海岸地帯を埋め立てて出来た産業団地に住む小学5年生の男の子が投身自殺をするという事件が起きました。私の教室に通う生徒の同級生でした。その彼が詩を遺していたんですね。文明がどんどん発達して、進化したその先はどうなるのか。自分が良い学校に入って、良い会社に入って、社長になってどうなるというのか、と少年の心で直観的に考えたことが綴られており、大変なショックを受けました。

その前年に、私はエジプトを訪れる機会があり、現地の子どもたちの貧しいながらも生き生きとした姿に強く心を打たれるという経験をしていました。それで、日本の子どもたちを何とか彼らに合わせたいと思い、88年に生徒たちをエジプトへ連れて行くツアーを企画しました。それから毎年1、2回、数人から数十人の子どもたちを合計18回も連れて行き、現地の子どもたちと一緒に絵を描いたり、交流を行いました。イスラム教の深い祈りとともにある彼らの暮らしに触れると、たいていの日本人は驚きますが、子ども同士はすぐに言葉を越えて心を通わせます。多くの子にとって初めての海外旅行であるエジプトを、その後も決して忘れることはありません。

(写真について)

多くの子どもたちと訪れたエジプトのピラミッドの前で。


50歳を目前に留学し、学んだアメリカ先住民の文化

そんなある日、エジプトで交流した人たちとのパーティーが日本であって、その帰り道に、その日オープンしたばかりのギャラリーの前を通った時、一枚の絵に出合いました。その頃、子どもたちの心の問題に加え、私自身も離婚を経て生活に迷いを抱えていましたが、その絵を見ていると、そうしたモヤモヤとした悩みがなくなり、幸せと安らぎを強く感じたんですね。それで尋ねてみたところ、それがアメリカの先住民ナバホ族の絵だということがわかりました。それから興味が湧いて、自分なりに調べるようになり、ついには現地でアートセラピーとネイティヴ・アメリカンの文化の勉強をしようと、留学を決意しました。91年、もうすぐ50歳になる頃です。

自分のこれまでやってきたことをまとめたファイルを作り、日本の子どもたちの状況を訴えて無事にビザも下り、教室をアシスタントに任せて、娘とともに移り住みました。ロサンゼルスの大学で1年間勉強し、メキシカンやアジア系の子どもたちが通う学校で授業を行った後、先住民が多く暮らすサンタフェに移りました。プエブロ族の学校を廻り、現地の子どもたちの暮らしを身近に知ることができました。

(写真について)

タオスプエブロの『OO-OONA- CHILDREN ART SENTER』でのワークショップで指人形を作ったカレン/クリスマスツリーを描いているカーリー。

かつて白人によって土地を奪われ、指定居住区での生活を余儀なくされた先住民の子どもたちは、成長しても就ける仕事が少なく、またメディアなどの影響で白人社会への憧れがあり都市に出て行きますが、差別を受けたりして、結局は地元に戻って暮らすことが多いようでした。しかし、一方で彼らは母なる大地(Mother Earth)を信じ、自然と共生して生きています。ニューメキシコ州にあるプエブロ族の集落、タオスプエブロにある彼らの聖地ブルーレイクという湖は返還運動を経て71年に彼らの元へと返されました。彼らはそこで生まれて、死後には魂がそこへ帰っていくものと信じています。その姿に心を打たれました。

93年には日本の子どもたちを40人ほどニューメキシコ州に連れて行き、翌年には何とかお金を集めて現地の子どもたちを日本に招きました。そして4年間の留学を経て95年に帰国しました。子どもたちはお互いにとても刺激を受けていたようです。それから20年以上経った後、その頃に日本を訪れたネイティヴ・アメリカンの人々に話を聞いた時、自分たちの文化を大切にして、誇りを持って生きようと考えている人が多くて、とても嬉しかったですね。今、彼らも何とか起き上がってきているみたいです。


待ち続ければ、必ず開花する時が来る

そんな風に、世界各地の子どもたちとの交流を深めながら、ずっと同じ場所で教室を運営してもう50年近くになります。生徒は3、4歳から高校生までいますが、この教室に入るための条件がひとつだけあって、本人がやりたいという意志を持っているということです。親がやらせたいというだけではダメ。その場合は少し時期を待って、自分がやりたくなったらいらっしゃい、と伝えます。子どもの自発性を何よりも大切にしてあげたいから。ここでは、こちらから何かを描くようにと強制することは一切しません。親や私のために描くことになってしまってはいけない。彼らが集中できる環境を与えて、ひたすら待つ。待ち続ける。そうすれば、必ず開花する時が来ます。

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子どもたちが思い思いのアイデアでスケッチを描き、作り、自ら纏う。

私の教室では、限られた時間の中で必ずこれをやらなければいけないということは何もありません。だから、この場では「できない」とすぐに投げ出すことだけは駄目だと伝えています。上手に作る必要も、早く作る必要もない。できるまで好きにやればいい。楽しくなれば必ず何かが出てくるんです。もちろん技術を高めることも大切ですから、上手く描きたいという子はそれを伸ばすことが喜びにつながります。その子にあったやり方を見つけてあげるのが大事だと思います。

日本の子どもたちからよく出る質問は、「こんなことしてもいいですか」というものです。私は、そんなこと聞く必要ないんだよ、ここでは基本的には何をやってもいいんだと話します。私は3歳の子どもにもカッターの使い方を教えます。道具を使えないと何もできなくなってしまうし、少しの怪我なら、絆創膏を用意しておけば大丈夫ですから。「カッターは危ないんだ」ということを知らないといけないんですよ。そうでないと、その危なさを知らないまま、それを他人にも向けてしまうかもしれない。

(写真について)

デザイン教室が開かれている横浜・金沢区の『アサバ・アートスクエア』の様子。

障害がある子も、個性と捉えて、出来る限り一緒のクラスでやっています。とにかく、どんな子どもも思い切りやれる場がないといけないんですよね。今の子どもたちは本当に忙しいんですよ。塾や習いごとが友だちとの交流の場であったりしますから、本人もその忙しさに気がついていないことも多くて、ストレスが身体的な症状として出てくる場合もある。心を解放する場が必要なんだと感じます。

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サン・フォアンプエブロでペーパークッションのクジラを作った男の子たち、紙の中のつめ物は新聞紙を丸めたもの。

(写真について)

2008年、訪れたガーナ共和国でのマンダラ作りのワークショップ。 

99年からは「金沢文庫芸術祭」を立ち上げ、アートを通じた町輿し、人興しの運動を目指して毎年、チーフプロデューサーとして奔走しています。昔、参加した子どもたちが大きくなって、スタッフとしてイベントを手伝ってくれるのが嬉しいですね。毎年、年始には教室のOBの子どもたちも集まってくれますよ。建築家になったり、ライターをやっていたり、ゲームや映画作りをやっている子もいるし、みんな好きなことや生きる目的を探して頑張っています。小さいころに本当の満足感を味わっていれば、その後の人生で何かが起きた時にもきっと支えになってくれる。そう信じて、自分も彼らとともに学んできたと今、思います。


PROFILE関連人物

井出幸亮

(英語表記)Kosuke Ide

(井出幸亮さんのプロフィール)

編集者。1975年大阪府出身。旅や文化・芸術を中心に雑誌、書籍などで幅広く編集・執筆活動を行う。著書に『アラスカへ行きたい』(石塚元太良との共著、新潮社)。主な編集仕事に『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』(新潮社)、『ズームイン! 服』(坂口恭平著、マガジンハウス)など。

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