ストーリー

(カテゴリー)ヴィヴィアン佐藤の『多曜ロードショウ』

vol.04 変わりゆく社会のなかで。

目次

ヴィヴィアンさんによる線画。目にはゴーグル、首元にガスマスクをつけたデニス・ホーの横顔。ジャンヌダルクのようにりりしい。

(シリーズ)ヴィヴィアン佐藤の『多曜ロードショウ』

(このシリーズについて)

それぞれが違う生き方しているのだから、人の数だけ映画解釈はあっていい。誤読も、独自解釈もなんでもあり。作家であり映画評論家のヴィヴィアン佐藤さんが、多様性をキーワードに映画を読み解きます。

vol.04 変わりゆく社会のなかで。

クレジット

[映画セレクト・イラスト]  ヴィヴィアン佐藤

[構成]  岡田カーヤ

読了まで約16分

(更新日)2022年07月14日

(この記事について)

世界は急速に変わりつつあります。異なるバックグラウンド、異なる思想をもった人たちが正義を貫くことで生まれる弾圧や争いの中、どのように大切なものを守っていけばいいのでしょう。一方で、異なる人同士が思いや考えを交換することで、大切なことに気づけることだってあります。新しい世界を見つめる2本の映画を紹介します。

 

今回紹介する映画
01『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』
02『白い鳥』

本文

01『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』

[STORY]
2014年に香港で起きた「雨傘運動」。警官隊の催涙弾に対抗して雨傘を持った若者たちが街を占拠したこの運動に、デニス・ホーが参加していた。香港のスター歌手でありながら中国のブラックリストにのった彼女は公演ができなくなってしまう。さらに、2019年6月のデモでも、催涙ガスと放水砲が飛び交う通りに立ち続け、デモ参加者を守ろうとする。香港ポップスのアイコンであった彼女は、どのようにして活動家へとなったのか。自由を求める香港の人々の声が、デニス・ホーという存在に重なり、その願いが一つの歌となって響き渡る。
公式サイト:http://deniseho-movie2021.com/

 

2020/アメリカ/ドキュメンタリー/DCP/83分
©Aquarian Works, LLC

コンサートでギターを背にかついで歌いあげるデニス・ホーの横顔

©Aquarian Works, LLC

「自由と革命の歌」が、これほどの重みを持ってしまうとは。

 

DIVERSITY IN THE ARTS TODAY(以下DA)
この映画もぐっときましたね。香港の今とデニス・ホーさんの生き方、歌が重なっていきます。

 

ヴィヴィアン佐藤(以下ヴィヴィアン)
結局は「はじまりの歌」なんですよね、タイトルにもなっていますが。

これまでロックは、自由とか平等とかを歌ってきたけれど、どこか絵空ごとでもありました。香港で暮らし、香港で活動するポップス歌手であり、ロックミュージシャンのデニス・ホーさんにとっても例外ではなかったのだけれども、それがリアルな言葉になってしまったのが、切ないですよね。

 

DA
まさか、「自由と革命」の歌が、これほどまでに重みをもってしまうとは。

 

ヴィヴィアン
何年か前、フジロックフェスティバルの会場に学生団体「SEALDs」が出演したとき、「ロックの会場で政治を語るな」といった人たちがいっぱいいました。ロックは自由や平等を歌ってきたけれど、商業的な音楽になりつつあることが、日本だけではなく世界中で起こっていました。

 

DA
そもそもは商業的なものでも、政治とかけ離れたものでもなかったのに。

 

ヴィヴィアン
本当はね。デニス・ホーさんは、2014年の雨傘運動に参加してリーダー的なことをして逮捕されてしまいます。その後は、中国で活動できなくなって、収入が9割くらい減ってしまう。そういう足かせがあるから、香港では彼女に追随する仲間がいない。この映画にもでてくる歌手のアンソニー・ウォンさんくらいなのですよね。

 

DA
香港、中国、台湾の有名人は政治的ポリシーを口にしないと映画の中でも言っていました。

 

ヴィヴィアン
彼女は11歳以降、家族で移住したカナダのモントリオールで過ごしています。香港には中国との一国二制度、さらにはその前のイギリス時代の文化も色濃く影響があるうえ、ホーさんの場合はそこにカナダ・モントリオールの文化も入ってくる。彼女の精神性が形成されたのがカナダなので、いわゆる香港人とは見かたや考え方が違うのかもしれません。

 

モントリオール時代の写真。友人たちと撮影したなかにデニス・ホーがいる。

©Aquarian Works, LLC

 

DA
少し離れ、俯瞰的に見ることができる……。

 

ヴィヴィアン
私、昨年中国の『出櫃』というドキュメンタリー映画を見たのですけど、その監督は女性で、『ゆきゆきて、神軍』の原一男さんの生徒だったようなのです。彼女がつくったのはLGBTや権利がテーマの映画なのですが、私がおもしろいと思ったのはカメラの魔術性について。

『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三さんは、もともと変わった人というのもあるけれど、カメラという魔術があったからああいうことができた。戦争は終わったけれど、引き上げに時間がかかっていたとき、上官が兵士を食べただろうと、今となっては平穏に暮らして孫までいる家にアポなしで乗り込んで白状させようとするわけですよ。それはカメラがあるからやれることですよね。奥に逃げようとする元上官を捕まえて、背負い投げまでしてしまう。カメラの魔術性ですよね。

出櫃』も同じで、急激に近代化というかアメリカナイズした上海に、LGBTQ+の考え方や言葉が入ってきた。とくにLGBTQ+が増えたわけではないのですが、人口が11億人の国だからそこそこ規模は大きく感じます。

映画で描かれていたのは、子どもたち世代のLGBTQ+と、親世代のノンケという構造なのですが、若い子どもというか青年たちが親にカミングアウトをするのも、カメラとともにある。カメラがあるから、今の自分のことを正直に言える。「好きな人は同性という自分を、全部認めてほしい、愛してほしい」ということを、子どもたちは親に訴える。それを聞いた親は悩み、絶望するということをする。

それはどういうことかというと、LGBTQ+という言葉が入ると同時に、アティテュード、態度も一緒に輸入されているような気がするのです。たとえばLGBTQ+という言葉を知らなければ、「僕は男の子が好きなのだけれど、好きな人と一緒に住んでいます。大丈夫でしょうか?」と言うことができる。それを聞いた親は「あなたが健康で、仕事をしていて、もしくは学校で勉強をしていて、幸せにやっているのだったらいいじゃない」というようになる気がするのです。

けれども、なまじっかアメリカ的に権利を主張する態度も輸入されてしまっているから、自分は今すべてのことを親に言わないといけないし、すべてまるごと認めてほしいとなってしまう。親は親でそういうことを聞いたら、世間体を気にして絶望しないといけなくなっています。

 

DA
態度の輸入っておもしろい。デニス・ホーさんが育ち、人間形成をしてきたのがカナダであるからこそ、ちょっと引いた目線で香港を見ることができるのでしょうね。そのことがスポンサーを失ってまで貫こうとする彼女の行動のもとになっているかもしれない。

 

ヴィヴィアン
そうですね。デニス・ホーさんにフォロワーがいないのは、そういうところもあるからかもしれませんね。カナダはアメリカよりも自由というか、個人を尊重するところがある。

ホーさんのご両親はふたりとも教師で、子どもたちには選択の自由とか、無限大に大きな視点でものを見てほしいし、価値観や考え方をもってほしいと考えて、個人が尊重されるカナダへ行ったと言っていました。

 

DA
モントリオールは、英語とフランス語が話され、ふたつの言葉、ふたつの文化が共存する街。香港も英語と広東語が共存していますが、ホーさんのお母さんが、カナダへの移住を決めるときのことを振り返り、当時も政治のことを語るのはタブーだったと言っていましたね。自由経済の象徴のようなあの頃の香港でもそうだったのかと複雑な気持ちになりました。当時から火種はあったのですね。

 

報道陣に囲まれ、たくさんのマイクを向けられるデニス・ホー。

©Aquarian Works, LLC

歌は戻れない過去。自由で可能性が無限大にあったころを思いながら、未来へ向かって突き進む。

船の上で下を向き微笑むアニタ・ムイ。

©Aquarian Works, LLC

 

DA
そういうことなのですね。

 

ヴィヴィアン
アニタ・ムイのことは本当に好きだったのですよね。とくに、恋人の話はでてこなかったけれども、アニタ・ムイにそういう気持ちがあったのでしょうね。

 

DA
映画のなかでも言っていましたが、アニタ・ムイは、80年代、香港ではマドンナよりも有名な存在だったそうですね。

 

ヴィヴィアン
スーパースターでした。

デニス・ホーさんの歌のことに戻りますと、この映画「ビカミング・ザ・ソング」というのは、「歌になる」ということですよね。

映画でも登場する「モントリオール」という曲では、戻れない当時の自分のことを歌にしています。当時住んでいた家の前まで行き、自由で可能性が無限大にあったモントリオールでの精神と、今の戻れない香港の現実と、それからもうひとつはアニタ・ムイに憧れて彼女のことが好きだった自分のことを歌にしています。恋愛の歌を歌っていた時代にはもう戻れないという思いがあるのでしょう。

戻ることはできないけれど、時間をたどるかのように、当時の気持ちを歌に託して歌う。よみがえらせるかのように歌う。でも、涙で詰まって、歌えなくなってしまう。

 

DA
歌い直そうとしても、やっぱり何度も詰まってしまう。あのシーンよかったですね。

ヴィヴィアン
いろいろなことを思い出して、思いがあふれてしまったのでしょうね。歌というのは、戻れない過去なのですよね。

 

DA
歌は戻れない過去。いい言葉。だから突き進むしかない。彼女の潔さがすごいと思いました。そして、ホワイトハウスで香港の現状を訴える演説を、歌手であるデニス・ホーさんがやる。その事実もまた切なかったです。

 

アコースティックギターを抱え、笑顔で歌うデニス・ホー。

©Aquarian Works, LLC

 

DA
ヴィヴィアンさんは、バンドのメンバー構成もおもしろいとおっしゃっていますね。

 

ヴィヴィアン
デニス・ホーの、お兄さんがキーボードでバンドに参加しているのです。アメリカのビリー・アイリッシュも同じ。『ビリー・アイリッシュ 世界は少しぼやけている』というドキュメンタリー映画がありますが、彼女もお兄さんと演奏や楽曲制作を共同でやっている様子が描かれています。

ホワイト・ストライプスという姉弟のロック・デュオがアメリカにいましたが、彼らの場合、結局は嘘で、姉弟ではなく元夫婦だったということですが。そのくらいファミリービジネスというか、家族で音楽をやることが日常的にある。

家族でも歌を歌いますよね。欧米にはリビングにピアノがあって、ピアノの上には家族の写真が置いてある。暖炉の上にも写真が置いてありますが、そこで家族が集まって会話をしたり、いろいろなことを共有するための装置になっているのですよね。

だから、逆にいうと、そういうところが先にあって家族が生まれ、家がつくられるのかもしれません。

 

DA
家族の真ん中にピアノがあり、音楽がある。

 

ヴィヴィアン
だからデニス・ホーも、ビリー・アイリッシュも、家族で音楽を演奏する、つくるということを子どものころからしていたのでしょうね。バンドを組んで音楽をやる前の話。日本にはあまりないけれど。

 

DA
映画『ノマドランド』にも登場していましたね。夢やぶれたバンドマンが家に戻って、ピアノを奏でて家族と歌う。そう考えると、日本には家族で演奏をする習慣はないように思えますね。カラオケくらい……? かつてはあったのでしょうか。

 

ヴィヴィアン
家にどのような楽器があったかを考えると、高度経済成長期にはピアノがありました。でもそれは習い事で教養のひとつ。親が弾いて子どもが歌うという文化はないですね。飲んで歌うとなると、芸者の役割になってしまう。

 

DA
盆踊りや祭りが地域を繋ぐ役割だったのでしょうけれども日常ではないし、家族単位でもない。私たちにとって、歌ってなんだろうと考えてしまいます。

 

ヴィヴィアン
中学高校時代にバンドを組むのはどこの国でもあるけれど、その前のところ、家族との関係に戻っていくというか、キープされているところがおもしろいし素敵だなと思いました。デニス・ホーも、ビリー・アイリッシュも。

 

DA
人に聴かせるための音楽じゃなく、自分たちで楽しむための音楽ってことですよね。家のなかでやるということは。

 

山頂に「FREE HK」とライトアップされた文字が浮き立つ香港の夜景。

©Aquarian Works, LLC

悪い行いは悪い。だけれど、単純に中国政府を「悪い」とはいうのは違うのではないか。

 

ヴィヴィアン
この映画や、香港の現状を見て「中国政府が悪い」というのは簡単。もちろん弾圧が強められている香港は狭くて生きにくいとは思うけど、それだけではないと言いたい。そこからすぐに中国政府を責めるのは少し単純すぎると思います。

もちろん、一国二制度を50年間続けると言ったからには、それは守ってもらいたいし、圧力の掛け方だってひどいです。

だけど、どうして私が単純すぎると思ったか。天安門事件が起こったとき、北京はたいへんなことになりました。1989年はその後、ベルリンの壁崩壊もあった激動の年でした。今回香港でデモが行われているのに、北京ではなんの動きもないのが特徴的だなと思っています。香港だけでなく、ウィグル、台湾との関わりも問題になっているけれど、北京のインテリ学生たちは動かない。

 

DA
それだけ締め付けも強いってことなのでしょうか。

 

ヴィヴィアン
というよりも、都市部の生活者にはゆるく、甘い汁を吸わせているということなのだと思います。すると、彼らにとって香港のことは他人事になってしまいますね。

 

DA
ヴィヴィアンさんが、「中国政府を悪いとはいうのは違う」というのは?

 

ヴィヴィアン
まあ、こちらの側から見れば「悪い」とは言えるけど、「悪い」といえる部分は、一国二制度をちゃんとキープしていないこと。そこに住んでいる人たちの権利を維持しないというところは悪いと思います。

ただ日本に住んでいて、共産党を非難するのは非常に簡単。非難しやすい。けれども、中国という国は共産党の国家。国の体制、考えでやっていることなので、我々が単純に体制自体を「悪い」と言うのはお門違いだと思うのです。香港、台湾の住民に対するやり方、そしてウィグルやモンゴル侵攻については大反対。大いに非難していいと思います。

 

催涙ガス対策のためゴーグル、ガスマスクを装着して、仲間たちへと振り返るデニス・ホー。

©Aquarian Works, LLC

 

DA
映画の中で、警察官がデモ隊の人々に対して、武器を向けているのを見るのはつらかった。警察官は無表情でした。感情が麻痺してないとできないでしょうね。

 

ヴィヴィアン
そこはひどいです。警官は本土から来ている人もいるかもしれないですね。映画の中では、「香港人が香港人に手を挙げるなんて」と嘆いていました。公務員は、共産党というか、国のものなのでしょうね。

 

DA
人間性を捨てていいのかという話ですね。

 

ヴィヴィアン
デニス・ホーさんは、話し合おうというようなことを言っていましたよね。それも聞いてもらえなかったけど。

この映画は進行形で、一段落したから映画にしたわけではなく、なるべく早く現状を見てほしいということで映画にしたという意思を感じました。

 

DA
しかも、その軸に「歌」がある。映画としてもおもしろい。

ヴィヴィアン
共産党の横暴なやり方、それから不透明なところ、それらは非常に危ないということもよくわかる。自分たちの国民に対してあれはない。そうした同時代に起こっていることを、しっかり見ておかないといけない気がします。

 


02『白い鳥』

白状を手にした、しらとりけんじさんが、点字ブロックの上を歩く写真に、この映画のタイトル「白い鳥」の文字が、青い文字で飛ぶように踊るように入る。映画のトップ画像。

写真提供:アルプスピクチャーズ

[STORY]
茨城県在住の白鳥建二さんは20年以上にわたり美術館に通いつづける「全盲の美術鑑賞者」。その鑑賞方法は見える人と見えない人がともに「会話」を使って作品に向き合う一種の対話型鑑賞。この映画は、白鳥さんとその友人たちとの活動や旅、さらに全盲者としての日常生活を追いながら、なぜ彼らはアートに魅せられるのか、「言葉」は何をどこまで伝えられるのか、作品を正確に鑑賞し理解するとはどういうことかなど、さまざまな問いを投げかけながら、異なる人たちがともに鑑賞することの尽きない可能性を提示する。

 

THEATRE FOR ALLで公開中。
 webサイト:https://theatreforall.net/movie/awhitebird/

監督:三好大輔 川内有緒
制作:アルプスピクチャーズ

 

白鳥さんと一緒にアート鑑賞をする二人の女性。大きな立体作品を前に、よく見て、語り、考える。

写真提供:アルプスピクチャーズ

白鳥さんと一緒にアート鑑賞をする二人の女性。壁一面の絵画作品を前に、よく見て、語り、考える。

写真提供:アルプスピクチャーズ

作品を語ることで、その人の背景や哲学、人生観が見えてくる。表現の仕方は多種多様。鑑賞者のほうにこそクリエイティブな力が求められる。

 

DA
盲人である白鳥さんが、人と対話をすることで美術を鑑賞することが描かれると同時に、白鳥さんの生き様も伝わってくる映画でした。ヴィヴィアンさんはどう見ましたか?

 

ヴィヴィアン
対話が美術の媒体になっているのがおもしろいし、そうあるべきだと思っています。そしてこの映画は美術鑑賞が媒体となって人の考え方、生き方、関係性が浮かび上がるところが描かれています。

ドラァグクイーンも、パーティーとかで人を結びつけたり、かきまわしたりする「媒介者」です。蜜蜂や蝶はポリネーター、花粉媒介者と呼ばれていますが、彼らは別に花粉を運んでいるわけではありませんよね。ただ、花の蜜が好きで蜜を吸っていたら、いつの間にか身体や羽に花粉が付いてしまっていただけのこと。でも、それを繰り返して、花々を渡っているうちに、世の中の花の多くが蜜蜂と蝶によって受粉されるようになりました。月下美人はコウモリによって受粉されますが……。白鳥さんのアートの見方は、アートのポリネーター的な役割があるなと感じました。

作品を語ることで、その人の背景や哲学、人生観が見えてくる。それがすごくおもしろいなと思いますし、そういう見かたを私も提唱しています。

 

白杖を手に、団地の横の路をひとり歩く白鳥さん。

写真提供:アルプスピクチャーズ

 

DA
ヴィヴィアンさんが勧める映画の見かたと、白鳥さんのアート鑑賞の根底は同じである。

 

ヴィヴィアン
そうです。だって、映画は監督とプロデューサーだけのものではなくて、彼らがいちばんの理解者でもない。鑑賞者である私たちは、彼らが気づかないような文脈であったり、話の筋だったりを見つけて、語ることだってできますよね。

見ている人それぞれに固有の人生、体験があるわけだから、なにと共鳴するかは人それぞれに違うわけです。たとえ双子であろうと、人格も経験も異なりますからね。固有の経験、固有の体験がある中、その映画を見たことでどういうことを思い出すのか。なにに共鳴して、自分の言葉としてどのように語れるかというと、表現のしかたは多種多様。鑑賞者のほうがクリエイティブなものを求められると、私はいつも思っています。

だから、この映画でやろうとしていることも、おもしろいと思いました。

 

DA
白鳥さんが最初に行ったアート鑑賞がデートで、誘われて行ったのがダヴィンチの解剖図でした。

 

ヴィヴィアン
それもおもしろかったですね。
もともと室町時代から江戸時代にかけて、「検校さんという目の見えない人がなる役職が幕府の中にあって、地位があり、みんなからの尊敬も集めていました。逆にいえば、昔のほうが発達していた。

江戸後期に活躍した国学者、塙保己一さんも検校で盲目でした。古代から江戸時代までに書かれ、失われつつあった貴重な書物を収集して文献集「群書類従」を編集・出版しました。彼の生き方は、ヘレン・ケラーに影響を与え、彼女の心の支えになっていたそうですよ。

 

白杖を手に、夜の歩道をひとり歩く白鳥さん。歩道にはみだして駐輪している自転車が行くてを阻む。

写真提供:アルプスピクチャーズ

 

DA
白鳥さんはマッサージ師の国家資格をもっていて実際にマッサージ師として働いていた時期もありますが、盲人だからマッサージ師という職業につくだけではなく、いろいろな世界を知りたいというようなことを言っていましたね。

 

ヴィヴィアン
内田百閒の『サラサーテの盤』に収録されている「柳検校の小閑」という作品があります。

この検校さんは耳や感覚が研ぎ澄まされていて、声色とか、自分を導いてくれる人の手の感触によって感情とか、性格がわかる。

例えば、ものすごい蝉の声とか、雨の音とか、庭先のずっとずっと先に汽車が走っていく音とかが、するどく、きれいに描かれていて、まるで百間さんが柳さんの肉体をとおして、世界を見ているような感じがするのです。

この映画でそれを思い出しました。映画では、身体をとおして描かれているわけではないけれど、特徴的なことは、描かれているものを言葉で説明していること。

 

DA
たしかに、そうすることで白鳥さんに伝えるだけでなく、言っている本人も「自分がなにを見ているか」を考えています。

 

ヴィヴィアン
映画のなにを見るかという問題でもあるけど、ひとつの風景をみたとき、そこにはいろいろな情報源があります。白鳥さんが街を歩くとき、いつ自動車とすれ違ったかとか、その車はどのくらいのスピードで走っていたかとか、どういう銀行があったかとか、そういうことは語られない。どうでもいいかもしれない。

でも、人はどこを見るか。そして、どこをピックアップして音声にするかというところが興味深く感じました。

 

居酒屋のテーブルにひとりで座り、生ビールを飲む白鳥さんの後ろ姿。

写真提供:アルプスピクチャーズ

 

DA
どこをピックアップして音声にするか。

 

ヴィヴィアン
大学の授業で映画を見せるんです。それで、それぞれが見て感じたことを、彼らの固有の人生経験とともに語ってもらうということをやっています。

wikiや監督やプロデューサーが語ることだけが唯一の事実ではありません。

人間も恋人とか夫婦だとか、たくさんの時間を過ごしている人が自分の姿を唯一知っているわけではなくて、好きなミュージシャンのコンサート会場でしか会わない人、小学校を卒業してから全く会っていない人とか、そういった人たちこそ本当の自分のことを知っているかもしれない。広くて大きな面だけではなく、小さい面、点滅している面、たまにしかでてこない面、もしくは今まで全く出てきたことがない面とか、そうした面も重要な構成要素だったりします。

人間だけでなく、都市や街、ニュースなどで語られる出来事も、すべて多面体。しかも、いびつな多面体であると思うのです。

だからwikiとか、Googleで検索して最初に出てくるものはある意味、権力/暴力的かもしれません。そうしたものを、いわゆる権力/暴力的だと気づかずに使っている。そこを危惧しないといけないと感じています。

 

*2021年6月に取材しました。


関連人物

ヴィヴィアン佐藤

(英語表記)Vivienne SATO

(ヴィヴィアン佐藤さんのプロフィール)
作家、映画評論家、非建築家、ドラァグクイーンなど。青森県七戸町をはじめとした地域のイベントをディレクションするとともに、日本各地でヘッドドレスワークショップも開催。詳細は、ヴィヴィアン佐藤Twitter、Facebookで随時更新中。
(ヴィヴィアン佐藤さんの関連サイト)