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(カテゴリー)インタビュー

井浦新と保坂健二朗が語る、生きるためのアート

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(カテゴリー)インタビュー

井浦新と保坂健二朗が語る、生きるためのアート

クレジット

[編集・文]  水島七恵

[写真]  井上 佐由紀

[ヘアメイク(井浦新)]  樅山 敦(BARBER BOYS)

[スタイリング(井浦新)]  上野 健太郎

読了まで約11分

(更新日)2017年11月24日

(この記事について)

日頃からアートに傾倒し、NHK『日曜美術館』の司会も務める俳優の井浦新さんが主演を務めた映画『光』。25年前に起きた殺人事件の秘密をめぐり、翻弄(ほんろう)される人間を描いた本作には、岡本太郎のオブジェやフリーダ・カーロの絵画といったアート作品が登場する。サスペンスドラマとアート。この異彩を放つ『光』を入り口に、井浦さんと、東京国立近代美術館主任研究員でキュレーターの保坂健二朗さんとのアート対談を敢行。カピトリーノの牝狼(めすおおかみ)、岡本太郎、縄文文化、アール・ブリュット、アウトサイダー・アート…。初対面のふたりが、生きるためのアートを語る。

本文

(埋め込みコンテンツの説明) えいが・ひかりのよこくどうが

映画『光』と岡本太郎の対極主義

保坂健二朗(以下、保坂):『光』を観ながら、今日はもう眠れないかもしれないなって思ったんです。愛と憎しみの狭間で混沌とした人間が、暴力や狂気に走る。それは人間のひとつの真理でもあって、僕自身もすごく揺さぶられるので、これは眠れなくなるだろうと。

井浦新(以下、井浦):実際、どうでしたか?

保坂:大変な映画でしたけれど、観終えたときには少しホッとしたところがあって、意外と眠ることができました。

井浦:どんなところにホッとしました?

保坂:信之(井浦新)と(瑛太)の関係に、最後、ほっとしたんだと思います。幼い頃から父親に虐待を受けてきた輔にとって、信之は守護神のような存在ですよね。そして25年後、信之と輔は再会しますが、そのとき輔は信之を脅しますよね。25年前に信之が犯した罪を知っているから。そんな輔を、最後に信之は救済した。そう思えたからほっとしたんです。

井浦:救済、なるほど。正直、頭で考えられないところで信之を演じていたので、そんな風に語っていただける映画で、僕はほっとしました(笑)。

ひだりにこんいろのジャケットをはおったさかけんじろうさん、みぎにちゃいろいジャケットをはおったいうらあらたさんがたってかいわをしているようす。

保坂:(笑)。もちろん、信之の救済の仕方は社会的規範で捉えれば、完全に破綻している。でも、ふたりの関係性を思えば理想的だったなと僕は思うんです。輔も本望だったんじゃないかと。これは語弊があるかもしれませんが、信之と輔の関係は単純化できない愛憎でぐちゃぐちゃで、それは突き詰めると純愛ではないでしょうか。セクシャルな行為が発生してしまう関係ではなかなか行き着かない状態というか、精神的な愛が存在していて、それは、美花(長谷川京子)や信之の妻の南海子(橋下マナミ)といった女性たちと男性の主人公たちとの間に流れる愛憎とはまったく質が違います。そのふたりの愛が、暴力の描写を通してフィジカルに伝わってくる。だからこれは……、大変な映画です。

井浦:僕自身、暴力といえば、信之のなかにある暴力性や狂気をどうやって表現していけばよいのか、悩みながらずっと考えていた時期があって。でもあるとき暴力や狂気を表現するのではなく、人間本来の姿をただ演じるだけなんだと気づいたときに、自分が解き放たれていくような感覚があったんです。その結果として、保坂さんがおっしゃった社会的規範や倫理、道徳をもたない素っ裸の人間が生まれた。『光』とは、そんな「野生」に踏み出してしまった人間の姿が描かれていると思います。実際僕は信之を通して動物に戻っていくような感覚があったんです。目の前に輔がいるから、素直にあんな表情をするし、声を出すし、行動をしていくっていう、そのままの気持ちで芝居をしていました。演じてるときに全然悩まない。だから余計に作品として『光』を客観的に観ることができなくなっているのかもしれません。

映画『光』より
©三浦しをん/集英社・©2017『光』製作委員会

保坂:僕は美術を専門に仕事をしているので、美術作品が登場すると自然と反応してしまいますが、『光』にはいくつかのアート作品が登場していました。

井浦:『光』はある意味すごく乱暴に相手(観客)に丸投げしているような映画なんですけど、そういったなかで劇中に登場する岡本太郎さん、フリーダ・カーロ、サエボーグさんといったアート作品は、『光』を解釈するうえではとても大きなヒントになっていると思います。

映画『光』より。サエボーグの作品の中に佇む信之と娘
©三浦しをん/集英社・©2017『光』製作委員会

保坂:選ばれたアート作品に対して、監督とは何か話されるんですか?

井浦:大森監督とはあまり答え合わせはしなかったんです。

保坂:劇中では《カピトリーノの牝狼》も登場していますね。ローマのカピトリーノ美術館にあるその作品は、紀元前5世紀作とも中世時代の作品とも言われていますが、いずれにせよ、ローマ建国伝説に関わる著名な彫刻作品です。題材になっているのは、後にローマ建国の父となるロムルスとその双子の弟レムスに乳を与える狼の姿で、作品の核心に触れるので多くは言えないですが、この双子は、信之と輔の人生にすごくリンクしてくるんですよね。

井浦:確かに……。狼という野生動物に育てられた双子、信之と輔もまた自然豊かな離島、美浜島で育っていますから。そうやってアート作品が答えを与えてくれる。大森監督、「丸投げする」とか言いながら、実はやさしいのかもしれない(笑)。

映画『光』の資料を見直す井浦さんと保坂さん。

保坂:あとこの解釈が正しいかどうかはわからないんですが、岡本太郎と言えば、この『光』に当てはまりそうな作品がふたつあるんです。

井浦:それはどういう作品ですか?

保坂森の掟》と重工業という作品です。この二作は劇中でも登場する川崎市岡本太郎美術館に収蔵されている作品なんですが、二作とも岡本太郎が提唱していた対極主義を具現化した作品です。対極主義とは、合理と非合理、具象と抽象、美と醜など、ふたつの対極的な要素のぶつかりあいから生まれるエネルギーを描こうという主義です。それで森の掟》は、真っ赤な原色の怪獣が描かれていて、怪獣の背中にはファスナーが付いている。異質なものを太郎はわざとぶつけながら、「怪獣は権力であり、ファスナーを開けると空っぽである」と痛烈に批判しています。またもうひとつの重工業は、巨大な歯車と巨大な長ネギを描いています。工業化社会、つまりテクノロジーの進化とそこに振り回される人間を描いていると考えられるんです。

井浦:対極主義、確かに『光』に当てはまる理由がわかるような気がします。

保坂:愛と憎しみ、生と死など、『光』もまた、対極することがどちらもとても強い状態で存在していますよね。だから『光』は、対極主義の現代版とも観て取れると思ったんです。

映画『光』より
©三浦しをん/集英社・©2017『光』製作委員会

井浦:対極にあるものは、どちらも同じくらい存在価値があるんですよね。だから『光』は、毒にもなるし、薬にもなる作品だと思っているんです。真ん中がないというか。その上で「あなたの生命感とはなんなのか?」を突きつけてくる作品。僕にとって『光』は、いわゆる光源の光ではなくて、人間の命の煌めきのような気がするんです。


縄文文化と岡本太郎が人生の道しるべに

保坂:井浦さんは普段からアート作品をよく観られているんですか?

井浦:はい、昔からアートが好きなのでよく観に行きます。特に岡本太郎さんは大好きなので、今回『光』の撮影で川崎市岡本太郎美術館に伺ったときは、正直浮かれてました。大好きな空間のなかで芝居できる。僕はなんて幸せなんだろうと。

保坂:アートが好きになるきっかけは何だったんでしょう?

井浦 :きっかけは縄文文化なんです。親が考古好きで、家族旅行というと、縄文や弥生時代の遺跡を巡るような家だったんです。だから僕にとって遺跡は、近所の公園と同じように楽しい楽しい遊び場でしたし、自宅には土偶や土器のレプリカが飾られていたので、幼い頃から縄文文化は身近な存在でした。その後、自分が大人になってからも遺跡巡りは続けていたんですけど、あるとき縄文がこんなに好きなら、日本のことをもっとちゃんと知るべきじゃないか? と。それで日本の美術史を自分なりに辿ってみることにしたんです。

保坂:アート好きが縄文から始まっているところが面白いですね。

井浦 :それで縄文、弥生、古墳……と、時代を辿りつつも、「室町時代はちょっと渋いなあ。一気に江戸時代まで飛んでみよう」とか、自由に楽しんでいました。でもまたすぐに室町時代にることになるんです。たとえば江戸時代末期まで活動していた狩野派を知るには、室町時代の中期を知らないと前に進めなかったりして。そうやって日本の美術史の文脈を知る過程がすごく楽しくて夢中になっていました。

保坂:岡本太郎はどんなきっかけで好きになったんですか?

井浦:まず岡本さんがテレビに出演されていた頃の記憶が、自分のなかにかすかに残っていることが大きいですね。「あの変な人は一体何者?」って、最初観たときはどきっとしながら、岡本さんの作品とちゃんと向き合ったときに、言葉にできない面白さがあって、どんどん惹かれていって。それで著書を読んでみたら、縄文の美を発見したのは岡本さんだったことがわかったんです。ほかにもアニミズム・シャーマニズムに根差した有形・無形の美についても書かれていて「うわっ!これだ!」と。岡本太郎という芸術家を知れば知るほど、僕自身が何に興味があるのか、すべて整理がついていくんです。だから僕にとって岡本さんは、人生の道しるべです。国立近代美術館で行われていた「生誕100年 岡本太郎展」(以下、太郎展)も興奮して、グッズも買いまくりました(笑)。

保坂:ありがとうございます(笑)。ちょうど太郎展が行われた会期が、東日本大震災の直前直後(201138日〜58日)だったんです。だからお客さんも、いろんな想いを持って観に来てくださっているというのが伝わってくるので、「太郎展で本当に良かった」というのが、当時の関係者一同の想いでした。太郎と言えば、以前あるキュレーターと「太郎の絵は、決してうまくないよね」と話し合ったことがありました。ただ、それは技術として。本当はうまく描けるはずなんです。でも太郎はわざとそうしているんだろうと。その理由についても色々と考えられるのですが、おそらく、太郎はうまく描くことによって作品に違う評価が入ってきてしまうことを避けたんだと思います。彼が考える真の美術、真にやらなければならないことから、遠ざかってしまわないように。またうまく描かないことで、対極主義をよりわかりやすくしたということもあると思います。

井浦:きっとそうだろうなって。僕自身思うところがあります。

保坂:その太郎の思う真の芸術とは、先ほど井浦さんがおっしゃったように、縄文の美を再発見した姿勢にあらわれていますよね。縄文人にとって、土偶や土器は自分たちの日用品であり、呪術品であったわけで、決して「美術作品」という意識はないんです。


アートの内側、外側、真ん中

井浦:うまい、うまくないで言えば、たとえば画家、円山応挙による水墨画《雪松図屏風があります。《雪松図屏風》は国宝ですし、その応挙の卓越した技巧に感動するのですが、でも僕がもっと好きなのは、応挙が心のままにさささっと時間もかけず、人の目も気にせずに筆を動かしたであろう水墨画の方なんです。《雪松図屏風》A面なら、B面とも言えるその作品に、なぜ僕はぐっとくるのか。それは作品に宿る純粋性なんですよね。B面は美しくまとまっていないし、むしろどこか乱暴にすら見える。でもすごくプリミティブで純粋で、生命感にあふれている。それは縄文土器や土偶、岡本太郎さんの作品にも共通したものがあるんです。作為がないというか。もちろん、これもまた僕自身の勝手な解釈であって、実は何重にも思考を張り巡らされた作品かもしれません。でも僕はそういう純粋性や生命感に強く惹かれます。

保坂:アール・ブリュット、アウトサイダー・アートもまた思うままに自分を表現する、生の芸術、美術とも言われていますが、井浦さんがこれまで触れてきた作品はありますか?

井浦:あります。今、思い出したのは、広島のミュージアムで行われていた「極限芸術 〜死刑囚の表現〜」を観たときのことです。作品に圧倒されつつひとつ感じたことは、もし「獄中で作った作品」であることを知らずに目の前の作品を観ていたら、自分はどんな気持ちになっただろう?ということです。きっとまた違った印象を持ったに違いないんです。作品に対する情報の与え方って難しいですね。このときどこかで「これはアール・ブリュットです。これはアウトサイダー・アートです」といったカテゴリーが、作品を観る上でひとつの先入観になっていたなと思うんです。

保坂:そこは本当に難しいところですね。そもそも美術館とは、美術についての価値判断をしていく機関ですが、価値判断をするためには基準が必要で、そのために美術史があるわけですよね。長い歴史の中で様々な人が紡いでいった一つの規範、体系があって、これに沿って判断していきましょうと。なので、その美術史に基づくことで自ずとインサイドの作品が生まれ、それがある種のインサイダー・アートになるんですよね。だからそこからこぼれ落ちるもの、そこにおさまらない作品は、また違った文脈や価値観で評価されて、それがアウトサイダー・アートであったり、アール・ブリュットであったり、違う呼称で語られてきました。

井浦:作品をより楽しんでもらうために、伝えるために、保坂さんをはじめとする専門家の人たちは時代を分け、カテゴリーに分け、美術の文脈を作る。僕らはその文脈があるからこそ、美術ファンとして好き勝手なことが言えるんだと思っています。

保坂:だから僕自身がいつも思ってるのは、まずはアウトサイダー・アートないしアール・ブリュットという呼称のもとに様々な方に作品を観ていただいて、するとたとえば井浦さんのように「呼称で分けずにアートでいいのでは?」と感じる人たちが増えていく。その結果として「すべてアートと呼びましょう」という流れができるかもしれない。それが望ましい変化なのではないかと思っているんです。

井浦:問い続けることは大切ですね。

保坂:そもそもアートの語源とはテクネー、つまり技術です。技術のなかでも卓越したものがアートと呼びうるわけですが、そうした技術も、かつては信仰を含めた生活に密接に結びついたものでした。縄文土器のように。でもそれがいつしか絵画や彫刻といった美術のための技術に変わっていき、その考え方の変化がとても強力だったんです。でも今はもう一度この技術を、プロのアーティストであるかどうかを問わないところで、自分たちが生きるために使っていいんじゃない?と。そんな時代に入っていると思うんです。そしてアウトサイダー・アートやアール・ブリュットの存在はそれを問う、ひとつの指針になっていますし、美術館もまた、この時代に何ができるのか問われますし、僕自身、考えていかなければならないと思っています。

井浦:アートは生きるために。僕にとってもそれは揺るがないものです。


Information

『光』 

20171125日より公開中

原作:三浦しをん「光」(集英社) 監督・脚本:大森達嗣 音楽:ジェフ・ミルズ出演:井浦新、瑛太、長谷川京子、橋本マナミほか

東京の離島・美浜島。自然溢れるその土地で暮らす少年の信之と、その同級生であり恋人の美花。そして信之を兄と慕う輔は、ある日、津波が島に襲いかかることで全てを失ってしまう。それから25年。妻子と平凡に暮らす信之(井浦新)の前に、突然現れた輔(瑛太)。輔は信之の忌まわしい秘密、25年前に美花(長谷川京子)を守るために殺人を犯したことを知っていた。極限状態を生き抜いた3人が、愛する者のために再び罪を繰り返していくさまを描く。

*作品の詳細や劇場情報は公式サイトよりご確認ください。

©三浦しをん/集英社・©2017『光』製作委員会


関連人物

井浦 新

(英語表記)Arata Iura

(井浦 新さんのプロフィール)
俳優。1974年東京生まれ。映画『ワンダフルライフ』(1998年)に初主演。以降、映画を中心にドラマ、ナレーションなど幅広く活動。現在、NHK-Eテレ『日曜美術館』のキャスターを担当しているほか、『ELNEST CREATIVE ACTIVITY』のディレクターを務める。公開待機作に、『二十六夜待ち』(2017年12月23日から全国公開)『ニワトリ★スター』(2018年)『赤い雪 RED SNOW』(2018年)『菊とギロチン –女相撲とアナキストたち-』(2018年)などがある。

保坂 健二朗

(英語表記)Kenjiro Hosaka

(保坂 健二朗さんのプロフィール)
東京国立近代美術館主任研究員。1976年茨城生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了(美学美術史学分野)。勤務先の美術館で企画した主な展覧会に『建築はどこにあるの?』(2010年)『イケムラレイコ』(2011年)『Double Vision』(2012年)『フランシス・ベーコン展』(2013年)『高松次郎ミステリーズ』(2014年)『声ノマ、全身詩人 吉増剛造展』(2016年)『日本の家展:1945年以降の建築と暮らし』(2017年)など。現在『すばる』『SPUR』『疾駆』等で執筆。主な著書に『アール・ブリュット アート 日本』(共著・監修 発行:平凡社)がある。