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写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち (1/3)

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【写真】金川さんのシルエットが電気の灯った建物の窓辺から外を覗く様子

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写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち (1/3)

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(更新日)2023年04月28日

(この記事について)

失踪を繰り返す父の存在を写真でとらえた作品シリーズ〈father〉などを発表している写真家・金川(かながわ)晋吾さん。そのまなざしは、社会のなかで“当たり前”とされる典型的な関係性を越え、自己と他者とを結びつける複雑な要素そのものに注がれているように映る。そんな金川さんが、人を「好き」になることについて、いろいろと思っていることがあるという。人を愛するとはどういうことなのか、人とともにあるとはどういうことなのか。自らの“しっくりこなさ”に向き合いながら、日々を生きるなかで湧き起こる戸惑いや想いを綴ってくれた。

本文

わかるけど、わからない「恋愛」

どうも居心地が悪い、しっくりときていないと感じています。でも、そのしっくりこなさが、何に対してなのか、それがうまくつかみきれません。と言ってもまったく把握できていないわけでもなくて、なんとなくはわかっている気がします。私は、一般的に恋愛と呼ばれているものに対してしっくりきていなくて、距離をとりたいのだと思います。

でも、「自分は恋愛というものにしっくりときていない」という言い方をしてしまうと、それもやっぱりどこかちがうような気がします。私は、恋愛にしっくりこないと言いながら、恋愛がどういうものであるのかをはっきりと言葉にできるわけではありません。実際のところ、恋愛とは一体何なのか、よくわかっていません。私は自分でもよくわかっていないもののことを嫌だと言っています。これは一体どういうことなのだろうと思います。でも、これは仕方がないことなんだろうとも思います。

恋愛というものには、はっきりとした定義や実体があるわけではないと思います。「恋愛」という言葉はあるけども、それが何を意味するのかははっきりとしていない。はっきりとしたかたちはないけど、あることになっているもの。そういうものについて考えたり、話したりするのはとてもむずかしいです。

これは、「一般」というものに対して、自分が感じたり思ったりしていることを話そうとすることのむずかしさでもあると思います。「一般的にはこうなっている」と自分は感じたり思ったりするけれども、その「一般」はどこかにはっきりと存在しているわけではありません。はっきりと存在していないものに対して、何かを言うことには不安がつきまといます。そもそも私が考えている「一般」自体がもしかしたら全然間違っていて、自分はずっと的外れなことをぶつぶつと言っているだけなのかもしれない。そういう不安があります。

そして、おそらくこの「一般」というものに対する不安と関係していると思うのですが、私は「恋愛にしっくりこないのは、自分に原因があるのではないか」という疑念をもってしまっています。「恋愛というものは本当はいいものであり、自分も本当は求めているけども、手に入らないから諦めているだけなのではないか」「恋愛が苦手だと感じるのは、自分が未熟なだけなのではないか」「自分は薄情な人間なのではないか」「人をちゃんと愛することができない人間なのではないか」などと思ってしまっているところがあります。

そうやって、「自分が悪い」と思うことは、自分にとってしんどいことではあります。だけど、実は自分が感じているもやもやに対して、手っ取り早くてわかりやすい答えを与えてくれもします。なので、そういう考えに陥りやすいし、逃げ込みやすいのだと思います。ある意味では、そういう考えに留まるのは楽なことです。でも、本当は、そんなふうに思いたいわけではないんです。

【写真】晴れた日中、マンション入り口付近の駐車場を背景に、金川さんが正面を向いているバストアップの写真

こうして、「恋愛」という言葉を使いながら、恋愛について文句を言っていても、結局恋愛のまわりをぐるぐる回ることになってしまいます。ここまで書いたものを自分で読み返してみると、むしろ恋愛にものすごく執着しているように見えます。実際、私はある意味では執着しているのかもしれません。でも、本当は、私は恋愛というものから距離を取りたいのであり、できれば恋愛なんて言葉はそもそもあまり使いたくないと思っています。

では、どうすればいいのでしょうか。当たり前すぎることですが、自分が感じていること、思っていることを、わからないなりに、手探りしながら、一つひとつ具体的に言葉にしていくしかないのだと思います。具体的に言葉にすることができたら、「恋愛」という自分の手には負えない言葉、幻のような言葉を使わなくても、自分のことを話せるようになっていくはずです。

私は、この当たり前のことに思い至るまでに、かなりの時間を要しました。そもそも、「自分が何かにしっくりきていないのだ」ということを自覚するまでにかなりの時間がかかりました。また、具体的にしていけばいいのだと思っても、ただひとりでうんうん考えているだけでは、全然具体的にはなりませんでした。

私の場合、自分のことを具体的にしていくには、具体的な他人の存在が必要でした。いろんな他人と出会い、自分の話を他人にしたり、他人の話を聞いたり、また、他人が書いた言葉を読んだりするなかで、自分のしっくりこなさが少しずつ具体的な言葉になってきています。あとは、具体的な事実や歴史を知ることも、自分の置かれている状況を理解するうえで本当に欠くことのできないものだと思います。

【写真】同居人とともに居間で犬と向き合っている、裸の姿の金川さんの様子

私は、その人以外の人と親しくすることが望まれなかったり許されなかったりする関係に、しっくりこなさ、居心地の悪さを感じます。誰かと親しくなるということが、“他の人と親しくならないこと”にはしたくないと思っています。

私は相手に、私以外の人とも親しくしてもらいたいです。私以外の人とも親しくすることができる人、親しくしたいと思う人にこそ、私は魅力を感じます。そして、私も、その人以外とも親しくしたいし、親しくする可能性を排除したくないと思っています。この「親しくする」ということのなかには、性的なことも含まれています。ただし、ここで言う性的なことというのは、性器的なことに限らないつもりです。「その人以外の人と親しくすることが許されなかったり望まれなかったりする」という問題は、性的なことがかなり関係してくると思います。

もうひとつ。私は変化することがよしとされていない、できれば排除すべきとされている関係にもしっくりこなさ、居心地の悪さを感じます。私はたがいに相手が変化することを忌み嫌わない、許容する関係のほうがいいような気がしています。「終生変わらぬ愛を誓いあう」みたいな関係から、また、そういう関係を素晴らしいと思うような考え方から、私は逃れたいと思っています。

ただ、そうは言いつつも、今ある関係を大切に守っていこうとするのであれば、「変化することをよしとしない、できれば排除しようとする」ことは、ある意味では全然おかしなことではないのかもしれない、とも思います。むしろ、「変化することを許容する関係」のほうが、ある意味では矛盾を抱えていると感じます。また、「その人以外の人と親しくすることをよしとするかどうか」ということも、この「変化することをよしとするかどうか」とつながっているのでしょう。今ある関係を大切にすることを最優先にするのであれば、目の前の人以外と親しくすることは排除したほうがたしかに無難だと思います。そう考える人がいるのは全然わかります。でも、おそらく自分はそうじゃないんだと思います。変わらないことよりも、変わること、変わってもよいとされることのほうを優先したいんだと思います。