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写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち (3/3)

目次

【写真】金川さんのシルエットが電気の灯った建物の窓辺から外を覗く様子

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写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち (3/3)

クレジット

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(更新日)2023年04月28日

(この記事について)

失踪を繰り返す父の存在を写真でとらえた作品シリーズ〈father〉などを発表している写真家・金川(かながわ)晋吾さん。そのまなざしは、社会のなかで“当たり前”とされる典型的な関係性を越え、自己と他者とを結びつける複雑な要素そのものに注がれているように映る。そんな金川さんが、人を「好き」になることについて、いろいろと思っていることがあるという。人を愛するとはどういうことなのか、人とともにあるとはどういうことなのか。自らの“しっくりこなさ”に向き合いながら、日々を生きるなかで湧き起こる戸惑いや想いを綴ってくれた。

本文

【写真】勾配のある道路に立ち、体を斜めに向けて正面を向いた金川さんの様子

「この人“で”いい」と「この人“が”いい」

「その人以外とも親しくしたい」という話をすると、「それはつまりポリアモリー1)ってことですか?」と聞かれることがあります。そう言われると、「たしかに自分はポリアモラスな性質があると思います」と答えることになりますが、そもそも私は単数か複数か、ということを問題にしたいわけではありません。私はポリアモリーという実践に共感する部分はありますし、ポリアモリーについて考えている人たちに出会ったことでとても勇気づけられました。ただ、「モノではないのか。モノでないならポリなのか」というふうに、言葉の上を次から次へとぴょんぴょんと飛び移っていくような話の進め方では、自分の話したいことは話せないと思っています。私はむしろ、まずは愛と言われているものについて、もっと話がしたいと思っています。

1)ポリアモリー:関係者の合意の上で、複数のパートナーシップを築くライフスタイルやその状態。「複数愛・複数恋愛」と訳されることもあるが、それらのパートナーシップは性愛をベースとする場合もあればそうでない場合もある。(「ポリアモリーウィーク2022講演録 〜恋人はひとり、じゃなくてもいい〜」より)

私は、愛というものが、もう少し別の方向からも語られてほしいと思っています。愛について、別の方向から話ができたらいいなと思っています。自分はそういう話をしたがっているのだということに、最近気がつきました。

一般的に、愛に関連することが語られるとき、ものすごくざっくり言うと、ある対象に「近づく」ような動き、方向性が語られることが多いと思います。

たしかに愛というものは、基本的にはそうやって何かに近づこうとするような動きや方向性をもったものだと思います。ただ一方で、愛というものは、必ずしも際限なく近づいて最終的には一体化しようとすることではなくて、これくらいで留めておきたい、これぐらいの距離はとっておきたいという、そういう動き、方向性も含まれているものだと思います。

私は愛における距離の話をもっとしたいと思っています。どれだけ近づけるかではなくて、どういう距離でいられるかが自分にとっては大切なのだと思います。このふたつは、結局は同じことなのかもしれませんが、この順番で考えることが今の自分には大切です。

誰かと親しくなるときに、近づくことだけではなくて距離についても話すというのは、実際の場面においてはともすると「野暮」と言われかねないことだったりすると思います。「あなたのすべてが好きなんです」とか「あなたのすべてを受け入れます」みたいなことを言うのではなく、「自分がどういう人間で、どういうかたちでならあなたと関われるか」という、いわば条件のようなものについて話すことになり、交渉のようなものになってしまうかもしれません。それはいわゆる「ロマンティック」と言われるようなものとは、相性が悪いことだと思います。 

ロマンティックっていうのがなんなのかは、これもはっきりとした定義があるわけではないと思いますが、何か余計なこと、野暮なことをあれこれ言わないことがよしとされているようなところがあると私は感じています。私としてはこの「ロマンティック」というものが台無しになってもいいので、距離について話せたほうがうれしいと思っています。むしろそうやって距離について話すことができることにこそ、私は「ロマンティック」な何かを感じるという言い方もできると思います。

【写真】枯れ枝の木々が並ぶ公園を背景に、黒いダウンジャケットを着た金川さんが、笑顔で右正面を向いている様子

ここで私が言っておきたくなることは、条件をちゃんと伝えたり、交渉みたいなことをするといっても、それは「割り切った関係」でやっていくということではないということです。いや、ある人からしたらそれは「割り切った関係」としか呼べないものなのかもしれませんが、私はそういう表現を使いたくないと思っています。私はこの「割り切った関係」という言葉が好きではありません。「割り切った関係」という言葉には、その背後に「割り切れない、本気の関係」というものがあることにされているからです。同様に苦手な言葉として、「浮気」とか「遊び」とかもあります。そういうふうに分けたくなる気持ちを理解というか想像することはできますが、自分はそんなことしたくないと思っています。 

「本気」なのか、あるいは「割り切り・遊び・浮気」なのかという区別が浮上してくるのは、「性的なこと」が絡んできたときにそうなりがちだと思います。これは、「性的なこと」というのは理想的には「好き」な人とのみするべきだけど、別に「好き」ではない人ともしたくなったりできてしまったりもする、だから、本気/割り切り・遊び・浮気という境界線をしっかりと引いて、「好き」というものが不純なものによって侵されないようにしているのかなと私は勝手に想像しています。

この想像は私の個人的な鬱憤に基づいたもので、あくまでひとつの考えに過ぎません。本当のところ、本気/割り切り・遊び・浮気の線引きをなんでするのかは、非常に複雑な問題で簡単に答えが出ることではないと思います。

ただ、やっぱりこの線引きは、性をあまりに単純化しすぎていると言ってしまっていいと思います。この線引きは、性と感情をきれいに切り分けることによって(切り分けられると考えることによって)、「好き」という感情と結びついた性こそが素晴らしいとするようなヒエラルキーをつくっていると言えるのではないでしょうか。このヒエラルキーは、「好き」と結びつかない性をよしとしないだけではなく、性に結びつかない「好き」というものもよしとしない圧力を生じさせると思います。そういう圧力は、やっぱり嫌なものだと思います。

【写真】金川さんが黒いブーツを履いた自身の足元を撮った写真

私は基本的には、いろんな人と性的なことがしたいと思っています。ただ、「いろんな人と性的なことがしたい」と言いながら、その「性的なこと」というのが自分にとってなんであるのか、いわゆるセックスと呼ばれるような性器にまつわることに限らないというのはわかっているつもりなんですが、本当のところ自分でもよくわかっていません。それは具体的な「他者」とのあいだで揺れ動くことだと思います。

「いろんな人と性的なことがしたい」というのは自分にとって紛うことなき事実なのですが、でもこんなことを言ってしまっていいのだろうかとも思います。こんなことは大っぴらに口にするべきではないのかもしれないという不安があります。

こんなふうに思ってしまうのは、「性的なこと」というのが揺れ動くことだから、というのはあると思いますが、それだけではなくて、私がやっぱり心のどこかで「性的なこと」を恥ずかしいことだと思っているからだと思います。私はこの「性的なこと」に対する恥ずかしいという感じを、もう少し変えたいと思っています。といっても、「性的なこと」はまったく恥ずかしさを伴わないことなんだと言ってしまいたいわけではないです。

「性的なこと」がまったく恥ずかしさを感じないようなこと、たとえば食事と同じようなことなのだとは思いません。「三大欲求」みたいなものすごく雑な言われ方があって、食欲や睡眠欲と同等の生理的な欲求として性欲が並べられたりすることがありますが、そういうことではないと思います。性欲は単純な生理的な欲求なんかではまったくなくて、さまざまな「意味」がまとわりついたとてもややこしい事象です。

今、私が感じている「性的なこと」に対する恥ずかしさは、「性的なこと」にまつわるややこしさに目を向けているからこそ感じているものなのかというと、そうではないと思います。むしろそのややこしさから目を逸らさせるものとして、外からの圧力として、「性的なことは恥ずかしい」と思わされているように感じます。「性的なことは恥ずかしい」と思わされることによって、「性的なこと」がもっているややこしさに、言い換えれば、そこに含まれる多様な可能性や豊かさに、目を向けにくくなっていると思います(ここで私は、「外からの圧力として、そう思わされている」という言い方をしましたが、実際のところ何によってそんなふうに思わされているのかについては、ゆっくり考えたいです。「思わされている」という言い方も、もしかしたらあまり適切ではないのかもしれません)。

それが一体何なのかよくわからなかったり、そのことについて語ることに恥ずかしさやむずかしさがついてまわるからこそ、私は「性的なこと」についてもっと他人と話がしたいと思っています。それもできれば、個別具体的に。今後そういう機会をつくっていきたいと思っています。

【写真】ビルを背景にしたテラスに座る金川さんが、左手遠方を見つめている様子

私は最近、叶(かのう)姉妹のPodcast『ファビュラスワールド』を愛聴しています。お姉さんである恭子さんの佇まいが本当に素敵だなと思って聴いていたのですが、あるとき、「そうか、恭子さんを自分がありたい姿のモデルのひとつにすればいいのだ」と思いました。そして、そう思ったら、なんだかとても元気が出てきました。

『ファビュラスワールド』のなかで、とても心に残っているやりとりがあります。リスナーからメールで、次のようなお悩み相談があったときのことです。

《男性と交際しようと思うときに、「この人“が”いい」と思う方とお付き合いしたいのですが、「この人“で”いい」と思える方としか、出会えていないです。「この人“で”いい」と思える人でも、お付き合いしてみるべきでしょうか?》

恭子さんは、この質問がもうたまらなく可笑しかったのか、妹の美香さんがお便りを読んでいる途中でたまらず吹き出していらっしゃいました。そして、お悩みを聞き終えると、若干の戸惑いを見せながら、「この人“で”いいんですよね」「“で”いいんですよね」と何度か確認をし、「“で”いいなら、いいんじゃないんでしょうか」とお答えになっていました。そしてさらに、「この人“が”いいというそういう相手が、今、実際にいらっしゃるんでしょうか」と本当に不思議そうにおっしゃっていました。

私にはこのリスナーの方が感じている悩みがわかりました。なので、この質問をすんなりと理解することができました。でも、恭子さんにはこの質問のなかに含まれている悩みが、つまり「“で”と“が”のちがい」が本当に理解できなかったのでしょう。なので、恭子さんにはこの質問が、思わず吹き出してしまうような不思議な問いかけに聞こえたのだと思います。

このリスナーの方や私と、恭子さんとでは、「好き」になるとか、お付き合いするとかについて、そもそもの前提がだいぶちがっているんだと思います。この質問は恭子さんからすると、「私は今東京に住んでいるんですけど、どこか別のところに住みたいと思っています。ということは、引っ越しをするべきなのでしょうか」とか、「家にはカレーまんがあるんですけど、私が食べたいのは肉まんです。肉まんを買いに行くべきなのでしょうか」みたいな、「それでいいんじゃないですか」としか答えようがないような、かなり可笑しな質問に聞こえたのかもしれないと思いました(私は恭子さんの実感はわからないので、喩えとしては全然ちがっているかもしれませんが)。

もし、私が友人から同様の質問をされたとしたら、恭子さんと同じように答えるでしょう。ただ、そう答えているときの私の実感は、恭子さんとは全然ちがうものなのだと思います。

Podcastを聴いているかぎり、恭子さんには「この人“で”いい」と「この人“が”いい」の区別が本当にないように感じました(もちろん実際のところはわかりませんが)。恭子さんにも、ものすごく魅力的に感じる人と、それほどでもない人というちがいはあるのだと思います。むしろ恭子さんはその点にはとてもシビアで、そういうところも恭子さんの魅力だと思います。ただ、そのちがいをあらわすときに、「この人“で”いい」か「この人“が”いい」か、という表現にはならないのだと思います。

こういう区別があるかどうかは、その人に備わっている性質によるところももちろん大きいと思いますが、でもそれだけではなくて、「そうするものだ」「そうするしかない」「そうしないといけない」と思っているか、思わされているかどうかにもよるのではないかと思います。

私も恭子さんのように、「この人“で”いい」と「この人“が”いい」という区別をする考え方の外に出たいと思っています。でも、そうするためには、この部分だけを変えようとしてもうまくいくわけではなくて、他人との関わり方や態度を具体的に変えていくことで、少しずつ変わっていくものなのでしょう。焦らず、怖がらず、やっていきたいと思っています。

【写真】緑の木々を背景に、顔を背けて裸でたたずむ金川さんの様子

関連人物

金川晋吾

(英語表記)KANAGAWA Shingo

(金川晋吾さんのプロフィール)
写真家。1981年京都府生まれ。2016年『father』(青幻舎)、2021年『犬たちの状態』(太田靖久との共著、フィルムアート社)刊行。2023年4月に、自身の伯母を10年間撮影した写真集『長い間』(ナナルイ)、父と写真について言葉で綴った『いなくなっていない父』(晶文社)、植本一子、滝口悠生との共著の日記本『集合、解散!』を刊行。また、長崎のカトリック文化や平和祈念像、自身の信仰をテーマにした『祈りと長崎(仮)』(書肆九十九)を刊行に向けて準備中。近年の主な展覧会、2018年「長い間」横浜市民ギャラリーあざみ野、2022年「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館など。
(金川晋吾さんの関連サイト)